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マイルス・スタンディッシュ : ミニ英和和英辞書
マイルス・スタンディッシュ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


マイルス・スタンディッシュ : ウィキペディア日本語版
マイルス・スタンディッシュ

マイルス・スタンディッシュ(、1584年頃 - 1656年10月3日)は、イギリスの軍人であり、アメリカのマサチューセッツ湾岸に設立されたプリマス植民地ピルグリムから軍事顧問として雇われた。1620年、メイフラワー号に乗ってアメリカに渡り、プリマス植民地の始まりから管理と防衛に関して指導的な役割を果たした〔Philbrick, 84.〕。1621年2月17日、プリマス植民地民兵隊がスタンディッシュを初代指揮官に選出し、その生涯を通じて指揮官に選び続けることになった〔Philbrick, 88.〕。イングランドではプリマス植民地の代理人となり、プリマス植民地では総督補や財務官を務めた〔Winsor, ''The History of the Town of Duxbury'', 49.〕。現在のマサチューセッツ州ダクスベリー町の最初の開拓者かつ設立者でもある〔Wentworth, 3.〕。
スタンディッシュの軍事指揮官として決定的な性格は、ネマスケット襲撃とウェサガセット虐殺と呼ばれる、インディアンの別々の集団に対する少なくとも2回の攻撃(あるいは小競り合い)となった先制攻撃に現れた性癖に示されていた。スタンディッシュはこれらの行動の間に軍人としてのかなりの勇気と技能を示したが、インディアンを怒らせ、植民地の中庸な開拓者達を困らせることになった残忍さも示した〔Philbrick, 153–156.〕。
プリマス植民地のためにスタンディッシュが行った最後期の軍事行動は1635年のペノブスコット遠征であり、失敗だった。1640年代までに、現役の軍人としての役割を諦め、ダクスベリーの農園で静かな余生を送るようになっていた。成長を続けるプリマス植民地の軍事力では事実上指揮官を続けたが、顧問を務めるのを好んだように見られる〔Jenks, 242.〕。1656年に72歳のときにダクスベリーの自宅で死亡した〔Winsor, ''History of the Town of Duxbury'', 95.〕。その人生の大半でピルグリムの植民地を支援し防衛したが、スタンディッシュが教会の礼拝に出席したことを示す証拠は無い〔Goodwin, 70.〕。
幾つかの町や軍事施設がスタンディッシュの名前を冠しており、またその記憶のために記念碑が建てられている。大衆文化の中でスタンディッシュの事績を描いた作品では、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローが1858年に著した『マイルス・スタンディッシュの交際』が名高い。フィクション性が強いがスタンディッシュを臆病なロマンティストとして描いている〔Jenks, 182.〕。19世紀には極めて人気が高く、アメリカの文化におけるピルグリムの話を語る時に重要な役割を果たした〔Browne and Forgit, 66.〕。
== 伝記 ==

=== 出生と軍人としての初期経歴 ===
マイルス・スタンディッシュの誕生や幼年時代について、はっきりしたことはほとんど知られていない。誕生地は歴史家の間で150年以上も議論の対象になっていた〔Bangs, Myles Standish, Born Where? 〕。その議論の中心は、1656年にプリマス植民地で書かれたマイルス・スタンディッシュの遺書に使われていた言葉であり、その遺産について次のように書いていた。
私は息子で承継者のアレクサンダー・スタンディッシュに、合法的な子孫による承継として私の土地全てを与える。オームスカーク、バースカウ、ライティントン・モーズリ・ニューバーグ、クロストン、アイル・オブ・マンの土地である。またスタンディッシュ町のスタンディッシュ家から私の曽祖父が2番目の弟である私に密かに留保されていた合法的な権利を与える〔

スタンディッシュが挙げている地名は、アイル・オブ・マンを除き、全てイングランドランカシャーにあり、このことからスタンディッシュは恐らくランカシャーのチョーリー町近くで生まれた可能性があり、スタンディッシュ家の分家がダクスベリー・ホールという邸宅を所有していたと結論付ける場合がある〔。しかし、スタンディッシュをダクスベリー・ホールのスタンディッシュ家に結び付けることは、決定的なものではないことがわかっている。競合する説は、スタンディッシュがアイル・オブ・マンに言及していることを挙げ、マイルスはスタンディッシュ家のマンクス分家に属すると論じている。どちらにしても、スタンディッシュの誕生地について文書による決定的な証拠は無い〔。
スタンディッシュの出生と幼年時代に関する恐らく最良の資料は、プリマス植民地の書記官ナサニエル・モートンが1669年に出版した『ニューイングランドの記録』に記したものであり、次のように書かれていた。
(スタンディッシュは)ランカシャー生まれの紳士であり、スタンディッシュ家の2番目の弟である曽祖父から、密かに彼に留保されていた広大な土地や家屋の承継者である。彼は若い時にオランダに行き、そこで軍人となり、ライデンで教会と親しみ、ニューイングランドに渡って、ニュープリマスのプランテーションを設立するために他の開拓者と協力し、初期の困難さを深く共有し、常に彼らの関心事に対して大変誠実だった〔Stratton, 357.〕

スタンディッシュが軍人としてオランダで(モートンが「低地」と言及している)経歴を積み始めた事情はほとんど曖昧なままである。当時のオランダ共和国スペインとの八十年戦争を戦っていた。イングランドのエリザベス女王は、プロテスタントのオランダ共和国を支持することを選び、軍隊を派遣してオランダでスペインと戦った。ナサニエル・フィルブリックのような歴史家はスタンディッシュのことを「傭兵」と呼んでおり、オランダでの機会を求める資産家に雇われた軍人だったことを示唆している〔Philbrick, 25.〕。別の歴史家ジャスティン・ウィンザーは、スタンディッシュがイギリス陸軍から中尉の任官を受けており、オランダで大尉に昇進したと主張している〔Winsor, ''History of the Town of Duxbury'', 97.〕。ピルグリムの歴史について指導的な学者であるジェレミー・バングスは、スタンディッシュがイギリスの将軍ホレス・ビアの下に仕えた可能性があると述べている。ビアは他でもなくランカシャーとアイル・オブ・マンの両地で徴兵しており、当時スタンディッシュがいたオランダでイギリス軍を率いた〔。
スタンディッシュが任官された士官であるか、傭兵であるか、あるいはその双方であるかにしろ、1603年頃にオランダに来ており、歴史家のチューダー・ジェンクスに拠れば、ビアのイギリス軍が関わったオーステンデ包囲戦に従軍していた〔Jenks, 38.〕。その後、スペインとオランダ共和国の間で成立した12年間の休戦(1609年-1621年)によって、スタンディッシュの軍務が終わったはずだが、学者たちはスタンディッシュが軍人のままだったかについては確信を持っていない。
スタンディッシュが1620年の文書に現れたときは、オランダのライデンで生活しており、ピルグリムから軍事的な事項に関する助言者として行動するべく雇われていた〔Stratton, 19.〕。当時のスタンディッシュは既に大尉という肩書を使っていた。この重要な地位に対する候補者を検討するとき、ピルグリムはまずジョン・スミス船長と関わることを望んだ。バージニアジェームズタウンでイギリス植民地を設立した者の1人として、スミスは北アメリカの海岸を探検し、地図を作っていた。ピルグリム達がスミスに新世界に戻る意思を問うたとき、スミスは興味を示した。その経歴が魅力ある候補者としていたが、ピルグリムは最終的にスミスを採用しなかった。その報酬額があまりに高く、ピルグリムはスミスが有名で性格が大胆であることで専制者になるのではないかと恐れた〔Philbrick, 59.〕。
スタンディッシュは当時妻のローズと共にライデンで暮らしており、明らかにピルグリムの意図を知っていた〔。1620年夏、スタンディッシュ夫妻は新世界に向かうピルグリムと共に旅立った〔Stratton, 406.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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