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マカバイ戦争(マカバイせんそう, Maccabean revolt)は、紀元前167年に勃発したセレウコス朝に対するユダヤ人の反乱とそれに続く戦争。主要な指導者ユダ・マカバイにちなんでマカバイ戦争とよばれる。この戦争の結果、ユダヤ人の独立勢力ハスモン朝の成立を見ることになる。マカバイ戦争をユダヤ側からの視点で描いたものが旧約聖書外典の「マカバイ記」である。 == 経緯 == === 発端 === イスラエルはディアドコイ戦争の後にプトレマイオス朝の支配する所となっていた。その統治下においてユダヤ人の生活は比較的平穏であったと考えられている。その後、数次にわたるシリア戦争の後、イスラエルはセレウコス朝の支配下に入った。 イスラエルを征服したセレウコス朝の王アンティオコス3世は地元の支持を得るためにユダヤ人に寛容な姿勢を持って望んだが、彼の死後王位を継いだセレウコス4世、そしてその後のアンティオコス4世エピファネスの時代に入ると、ユダヤ教団内部の対立に端を発して俄かに情勢が変化した。 セレウコス4世の時代、エルサレムの大祭司であったオニアス3世と神殿総務長であった名門ビルガ家のシモンが人事を巡って対立していた。シモンはセレウコス4世に対しオニアス3世の讒言を繰り返したが、結局オニアス3世はシモンに対して優位を維持した。 しかし間もなくセレウコス4世が死去し、アンティオコス4世が王となると、大祭司オニアス3世の弟イアソン(ヤソン)はトビヤ家の支援を受け、莫大な貢納金をセレウコス朝に納めて大祭司職を得た。イアソンは更にアンティオコス4世に対し自分の権限でギュムナシオン(体育場)やエピペア(青年団)を設立し、エルサレム市民をアンティオキア市民として登録することが許されるならば更なる貢納を行うと提案し、これが認められたために支配権を握り大規模なギリシア化政策を実行した。 その後、紀元前172年にはでシモンの弟であるメネラオスがイアソンを上回る貢納金を納めて大祭司職を得、イアソンは地位を失った。メネラオスは(恐らくセレウコス朝の指示によってであるが)勝手にエルサレム神殿の財産を持ち出すなどしたために敬虔派のユダヤ人の憎悪を買った。そんな中でエジプトに遠征していたアンティオコス4世が死亡したという噂がイスラエルに流れた。これを好機と見たイアソンは地位回復を目指して挙兵し、エルサレムを一時占領したが結局破られて死亡した。 ところがこのイアソンの挙兵はエジプト遠征中のアンティオコス4世に「ユダヤ人が反乱を起こした」と報告された。実際アンティオコス4世にしてみれば遠征中に後方で起こった騒乱、しかも彼が任命した大祭司に対して武力行使に及んだイアソンの行動は反乱以外の何者でもなかったかもしれない。アンティオコス4世はエルサレムに進軍して神殿を掠奪し多数のユダヤ人を殺害、又は奴隷とした。そして要塞を築いて非ユダヤ人を駐留させ監視させるとともに、ユダヤ人に対しユダヤ教の律法に基づいて生活することを厳禁した。そしてエルサレム神殿はゼウスの神殿とされた。 こうした中、紀元前167年に、セレウコス朝の将軍リュシアスは、アンティオコス4世の代理としてユダヤ人達にゼウス神への奉納を命じた。エルサレムの祭司家やヘレニズム的な貴族らは親セレウコス朝の立場を取ってこれに従ったが、地方都市モディンの祭司マタティアは、これを強制したセレウコス朝の役人とその仲間の親セレウコス朝的なユダヤ人を殺害した。そしてマタティアが5人の息子たち(ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタン)と共に山中に隠れると、セレウコス朝に対する敵意を募らせていたユダヤ人がそこに集まった。マタティアはこれを軍に組織し、次第に本格的な反乱となっていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マカバイ戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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