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マキシマ・ソレギエタ・セルティ(, 1971年5月17日 - )は、オランダ国王ヴィレム=アレクサンダーの妃。オランダ王妃()、オラニエ=ナッサウ公妃()の称号を持つ。 == 結婚まで == 1971年、バスク系・イタリア系アルゼンチン人のホルヘ・ソレギエタ(Jorge Zorreguieta)と、2度目の妻でバスク系アルゼンチン人のマリア・デル・カルメン・セルティ・カリカルト()の娘としてブエノスアイレスで生まれた。父が先妻との間にもうけた異母姉が3人、同母兄2人と同母姉1人がいる。父ホルヘは裕福な農場経営者で、ホルヘ・ラファエル・ビデラ政権時代に農林大臣を務めた。1995年にアルゼンチン・カトリック大学(Universidad Católica Argentina)で経済学の学位を取得し卒業した。1999年、ニューヨークで銀行に勤めていたマクシマは、友人主催のパーティーのあったセビリアのバルで、親戚に紹介された女性と一緒にいたウィレム=アレクサンダー王子と知り合う。この時、マクシマはウィレム=アレクサンダーに王子とは知らずにカメラを向けたため「失礼だぞ」と制止されるも、王子と同行していた女性を「そんな美人じゃない人と一緒にいて」などと言うなど、物怖じしない対応をしたという〔『日立 世界・ふしぎ発見!』2013年5月4日放送分〕。 2000年頃、2人の交際が公けになり、オランダ国内で大きな議論を巻き起こした。マクシマの父ホルヘが、軍事独裁政権であったビデラ政権の閣僚であったことが問題視されたのである。無実の市民の大量虐殺を引き起こした政権の実力者の娘と、次期王位継承者との結婚を許していいものか、もし結婚を選ぶなら王位継承権を放棄すべきだ、との世論が巻き起こった。結局、ホルヘは大量虐殺には一切関与していなかったとの結論が出された。 2001年1月31日の女王ベアトリクスの誕生日、女王夫妻とウィレム=アレクサンダー、そしてマクシマが並んで写された写真が公表され、女王と王配クラウスが2人の結婚に賛成の意向を示していることを公けに示した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マクシマ・ソレギエタ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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