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マキノ・プロダクション(1925年6月 設立 - 1931年5月 改組 / 同年10月 新社解散)は、かつて京都に存在した映画会社である〔マキノ映画活動史 、立命館大学、2008年1月19日閲覧。〕〔御室撮影所 、立命館大学、2008年1月31日閲覧。〕。製作拠点は御室撮影所(おむろさつえいじょ)〔〔。サイレント映画の時代に牧野省三が設立、直木三十五、衣笠貞之助、伊藤大輔、そして阪東妻三郎や勝見庸太郎など外部の独立プロダクションの若手とも提携し、数々の傑作を生み出した。最末期にはトーキーの研究にとりくんで先駆的トーキー作品を発表、これが牧野没後のマキノトーキー製作所へとバトンをつないでいく。 == 沿革 == * 1925年6月 - 牧野省三、マキノ・プロダクション設立、京都・天授ヶ丘に御室撮影所を開所〔 * 1927年1月 - 『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(監督牧野省三)製作開始〔 * 同年5月 - 中部撮影所完成〔〔名古屋のマキノ 前篇 、木全公彦、マーメイドフィルム、2013年6月21日閲覧。〕 * 1928年3月 - 『忠魂義烈 実録忠臣蔵』編集中に失火、本宅とネガフィルム焼失〔、14日同作公開〔忠魂義烈 実録忠臣蔵 、日本映画データベース、2013年6月5日閲覧。〕 * 同年5月 - 中部撮影所撤退〔 * 同年11月 - トーキー研究に着手〔 * 1929年7月5日 - 先駆的国産ディスク式トーキー『戻橋』(監督マキノ正博)公開〔〔戻橋 、日本映画データベース、2013年6月5日閲覧。〕 * 同年7月25日 - 牧野省三死去、同年9月新体制発表〔 * 同年12月 - ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻、撮影所訪問〔 * 1930年11月 - 企画部設置〔 * 同年12月 - 賃金未払発生、争議状態に〔 * 1931年1月 - 製作再開〔 * 同年5月 - 新マキノ映画株式会社に改組〔〔 * 同年10月 - 製作再開できないまま解散〔〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マキノ・プロダクション」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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