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御室撮影所(おむろさつえいじょ)は、かつて存在した日本の映画スタジオである〔''御室撮影所''、立命館大学、2013年6月19日閲覧。〕〔''マキノ映画活動史''、立命館大学、2013年6月19日閲覧。〕。1925年(大正14年)6月に牧野省三が設立したマキノ・プロダクションの生産拠点として開所、以来、同社の解散後も、大衆文芸映画社、正映マキノキネマ、宝塚キネマ興行、エトナ映画社、極東映画がそれぞれの撮影所として使用した〔。マキノ・プロダクション解散後の時期によって、正映マキノ撮影所(しょうえいマキノさつえいじょ)、宝塚キネマ撮影所(たからづかキネマさつえいじょ)、エトナ映画京都撮影所(エトナえいがきょうとさつえいじょ)と正式名称を変更している〔。略称は御室(おむろ)、あるいはその所在地から天授ヶ丘(てんじゅがおか)〔〔。 == 略歴 == * 1925年6月 - 牧野省三がマキノ・プロダクション設立、御室撮影所開所(当初ステージ・俳優部屋・衣裳部屋・事務棟の簡易スタジオ) * 1927年5月 - 同社の拡大にともない名古屋市内に中部撮影所(所長マキノ正博)開所〔 * 1928年3月 - 河合広始・田中十三が同社を退社、双ヶ丘撮影所を設立〔双ヶ丘撮影所 、立命館大学、2013年6月19日閲覧。〕、同年4月、片岡千恵蔵、嵐長三郎(のちの嵐寛壽郎)らスターの退社相次ぐ * 1929年7月25日 - 牧野省三死去 * 同年9月 - 小笹正人を所長、マキノ正博を撮影部長(現在の製作部長)に新体制発表 * 1931年4月 - 同プロダクション、製作停止 * 同年5月 - 新マキノ映画設立、製作再開できず * 同年10月 - 新マキノ映画解散(広義のマキノ・プロダクション解散)、高村正次が直木三十五らの協力を受け大衆文芸映画社設立 * 1932年2月 - 高村正次・立花良介がマキノ本家と提携して正映マキノキネマ設立、牧野知世子を所長に正映マキノ撮影所とするも原因不明の出火でステージ全焼 * 同年4月 - バラックでステージを再建して3作を製作したのち、正映マキノキネマ解散 * 同年7月 - 大衆文芸映画社活動停止 * 同年11月 - 高村正次・南喜三郎が宝塚キネマ興行設立、宝塚キネマ撮影所となる * 1934年2月 - 宝塚キネマ興行解散 * 同年7月 - 田中伊助がエトナ映画社設立、第1作を片岡千恵蔵プロダクションの嵯峨野撮影所のトーキー用ステージをレンタルして製作〔エトナ映画の軌跡 、立命館大学、2013年6月19日閲覧。〕 * 同年9月 - 室戸台風襲来、御室撮影所は倒壊する〔 * 同年12月 - エトナ映画社が御室撮影所を買収、トーキーシステムを導入し、エトナ映画京都撮影所(所長田中聖峰〔)となる * 1935年2月 - 鉄筋ステージ新築(300坪)、同年4月、ダークステージ新築にそれぞれ着手〔 * 同年3月 - 極東映画(同年2月設立)が仮撮影所として借用、同年4月29日に甲陽撮影所に転出 * 同年5月 - エトナ映画社解散、御室撮影所閉鎖〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「御室撮影所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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