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マキノ雅彦 ( リダイレクト:津川雅彦 ) : ウィキペディア日本語版
津川雅彦[つがわ まさひこ]

津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年1月2日 - )は、日本俳優映画監督芸能プロモーター評論家京都市中京区出身。別名義 : マキノ 雅彦(マキノ まさひこ)は映画監督をする際に名乗っている。芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務める。
本名 : 加藤 雅彦(かとう まさひこ)。妻は朝丘雪路、娘は真由子、父は沢村国太郎、母はマキノ智子、兄は長門裕之、祖父は牧野省三。その他の身内についてはマキノ家を参照。
== 来歴 ==

芸能一家に生まれ、子役として数本の映画に出演していたが、本格的な銀幕デビューは16歳のとき、1956年の日活映画『狂った果実』である。やはりこの映画が本格的な主演デビューとなる石原裕次郎の弟役を探していた石原慎太郎が一目見て気に入り、沢村家に頼み込んで強引にキャスティングして名付け親ともなったが、本人は新聞記者に憧れて早稲田高等学院に在学しており、「夏休みだし1本くらい出てもいいか」と軽い気持ちだったという。しかし映画のヒットとともにたちまちスターダムに上り詰め、日活の看板俳優となった。
人気絶頂の1958年に、松竹へ移籍するがここではヒットに恵まれず、フリーに転身してテレビなどに活動の場を広げた。しかし1969年のデヴィ・スカルノとの不倫騒動をきっかけに仕事が激減。窮地に陥っていたところ、1972年から開始された必殺シリーズの悪役に起用された。演出を担当した松本明は「世の中のみんなはお前が嫌いなんだから殺される悪役をやれ!」と言って津川を起用したというが、美男スターのプライドを捨てて悪役をこなす中で多くを学んでいったという〔私の職務履歴書「第19回 映画監督・演出家 マキノ雅彦の場合」 〕。
1982年には映画『マノン』でブルーリボン賞助演男優賞を受賞。以後、この作品におけるような好色な中年男性を多く演じ、評価を確立。また伊丹十三監督作品の常連として厳しい演技指導を受ける中で、演技に開眼していった。
中年となってからの演技派としての活躍には、叔母である沢村貞子から「雅彦、お前は、顔がいいんだから芝居は4倍うまくならないと認めてもらえない」と、津川が若い頃に口酸っぱく忠告されたことが影響しているといわれる。20代半ばに差し掛かる頃より徐々に肥え始め、それに伴い独特の癖のある風貌が強くなっていった。しかし逆にその個性を活かし、真っ当な役柄から変質者まで幅広く演じるほどの演技力を持つに至った〔生い立ち、役者としての来歴については番組ダイアログ「津川雅彦」 を参照〕。
ジェームス三木脚本の作品に多く出演している。渡辺淳一原作作品の常連出演者でもあり〔映画では『ひとひらの雪』『別れぬ理由』『桜の樹の下で』、ドラマでは『氷紋』『野わけ』『まひるの』『化身』『うたかた』『白い影』『エ・アロール』など多数〕、ジェームズ三木、渡辺、伊丹の3人を自分にとって「三種の神器」のような存在であり、彼らなくして今日の自分はなかったとしている〔津川雅彦「僕にとっての三種の神器が…ぼう然自失」 スポーツニッポン、2014年5月7日〕。
時代劇への出演も多く、三英傑織田信長豊臣秀吉、徳川家康)をすべて演じたが、後述の出演作品一覧の通り、徳川家関係の人物を演じることが多く、大河ドラマだけでも、家康、綱吉、慶喜を演じている。
2014年春の叙勲では旭日小綬章を受章した〔平成26年春の叙勲受章者名簿 旭日小綬章以下 東京都 - 内閣府〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Masahiko Tsugawa 」があります。




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