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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
マキバスナイパーは日本の競走馬、種牡馬。おもな勝鞍に第24回帝王賞。そのほかの勝ち鞍に日本テレビ盃、浦和記念(2勝)などがあり、ペキンリュウエンの代表産駒である。 馬齢は旧表記(数え年)で統一する。 == 戦績 == クイーン賞を勝ちオールカマー3着など、南関東公営競馬のトップ級牝馬であったマキバサイレントを半姉に持ち期待されながら1998年1月4日船橋競馬場でデビュー。4歳時は、コンスタントに使われ戸塚記念、東京湾カップといった重賞は勝てなかったものの6勝をあげた。 年が明け5歳になり、条件戦で勝ち星を挙げながら徐々に力をつけ11月末の東京記念で重賞初制覇。その勢いで臨んだ東京大賞典は7番人気ながら3着に入った。 南関東の有力馬の一頭と目されるようになったマキバスナイパーは6歳となった年明けの重賞埼玉新聞杯、報知グランプリカップを連勝。その勢いで臨んだ地方交流重賞のダイオライト記念、オグリキャップ記念は4着、2着と勝ちきれなかったものの、11月の浦和記念で地方交流重賞初制覇となった。 7歳時、アメリカの名手であるケント・デザーモが息子の治療のため日本を訪れる。デザーモは、当初はJRAの短期免許を取得し、JRAの短期免許が切れたあとは、自宅に帰ることが可能な船橋競馬場で短期免許を取得した。帝王賞に向けて調整していた陣営はこれを聞きつけ、これまでの主戦である左海誠二にかわり、デザーモに騎乗依頼を出した。帝王賞連覇を狙うファストフレンドなどのメンバーがそろったが、デザーモの好騎乗もあり、リージェントブラフ以下を抑えきり優勝し、念願の交流GI初制覇を果たした。 その後、何レースかはさみ10月末には第1回のJBCクラシックに出走。勝ったレギュラーメンバーにはクビ差及ばなかったものの、同年のフェブラリーステークスを勝ったノボトゥルーらを抑え地方最先着の2着に善戦した。 翌年は、マイルチャンピオンシップ南部杯の3着が最高と交流G1は勝てなかったものの日本テレビ盃、浦和記念と交流GIIを2勝。その後、2003年のみちのく大賞典を最後に勝利から遠ざかり、現役最終年には高崎競馬場に移籍。2004年10月のレースを最後に引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マキバスナイパー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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