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マクダ・ゲッベルス
ヨハンナ・マリア・マクダレナ・ゲッベルス(Johanna Maria Magdalena Goebbels, 1901年11月11日 - 1945年5月1日)はナチス・ドイツの宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルスの妻。いわゆる第三帝国の掲げる理想を具現化した母親像として宣伝に加担した。第二次世界大戦の末期、ソビエト赤軍がベルリンに侵攻した際(ベルリン市街戦)、夫ヨーゼフとの間に生まれた6人の子供達を殺害し自殺した。 ==幼少期・青年期==
1901年、ベルリンの建築家オスカー・リッチェル (Oskar Ritschel) の家政婦をしていたアウグステ・ベーレント (Auguste Behrend) は女児マクダを出産、その後まもなく二人は結婚したが、1905年、離婚。1906年、アウグステはユダヤ人で裕福な皮革工場主と再婚し、マクダもフリートレンダー姓を名乗った。1908年、フリートレンダー一家はブリュッセルに移住、母アウグステは多忙を理由にマクダを修道院の寄宿学校に入れるが、第一次世界大戦勃発時、一家はドイツによるブリュッセル侵攻に対する怒りの渦巻くブリュッセルから家畜運搬車に乗せられてベルリンへと逃げ帰る。ベルリンで継父フリートレンダーは給仕となって家族を養おうとしたものの一家は貧困に陥り、結局1914年、母アウグステとフリートレンダーは離婚をする。なおフリートレンダーは後日ザクセンハウゼン強制収容所で死亡したと推測されている。マクダの教育を金銭的に支援したのは実父リッチェルで、マクダはリッチェルのもとを頻繁に訪れ、彼から非暴力の哲学や仏教の教義を教えられた。1919年、名門ホルツハウゼン女子大学に入学したマクダはベルギーから同じように避難してきたユダヤ人の同級生リサ・アルロゾロフの兄ハイムに恋をする。アルロゾロフ家に遊びに行くうちに感化されたマクダはダビデの星のネックレスをつけ、ハイムと一緒に「約束の地」に移住したいという考えを抱いていた時期もあった。はシオニズム指導者として活動を続け、1933年、パレスチナで暗殺されている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マクダ・ゲッベルス」の詳細全文を読む
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