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マケドニア朝ルネサンス(マケドニアちょうルネサンス、)とは、10世紀の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)における古典の復興と文化の高揚を指し、近年使われるようになった用語である。 == 前史 == 7-8世紀の東ローマ帝国はイスラム帝国やブルガリア帝国の侵攻、聖像破壊運動や帝位をめぐる内乱などによる混乱が続き、後世「暗黒時代」〔井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(1998年 中央公論社 )P52およびP94を参照。〕とも呼ばれる時代であった。このため、文化面でも古代ギリシャ・ローマ時代の文献が戦乱で散逸してしまうなど、停滞を余儀なくされていた。 文化の再生は9世紀のアモリア王朝末期から始まっており、9世紀の学者コメタスは忘れ去られていたホメロスを甦らせた。ギリシア文字の小文字が使われるようになり、それまで続けて書かれていた単語が区切られるようになるなど、ギリシア語のテキストを読みやすくするための改良が加えられた。アモリア王朝の皇帝テオフィロス(在位:829年 - 842年)の時代に活躍した数学者レオーンは古代ギリシャの自然科学や技術の復興を進め、東方国境から首都コンスタンティノポリスまでの狼煙による通信網〔この通信網ではアナトリア東南部のタウロス山脈から首都まで国境の異変が伝わるのに一時間もかからなかったという。前述の『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』P97を参照。〕や宮殿に吼えるライオンやさえずる鳥の像、動く玉座などの仕掛け〔これらの仕掛けは謁見者に皇帝の威力を示すための装置だった。これらの仕掛けのことはクレモナ司教リュートプラントがコンスタンティノス7世に拝謁した時の記録にも記されている。井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(2008年 講談社学術文庫)P160-161を参照。〕を考案した。 さらにテオフィロスの子ミカエル3世の治世には、コンスタンティノポリスのマグナウラ(大黄金)宮殿内に高等教育機関「メガ・ディダスカリオン」(「帝国大学」と訳されることが多い)が設置され、学問研究が進められた。そこでは数学者レオーンや当時を代表する大知識人フォティオス(後のコンスタンティノポリス総主教)らが教授を務め、古代ギリシャ文化の研究が進んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マケドニア朝ルネサンス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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