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マサラッキは日本の競走馬。中央競馬でおもに短距離戦を中心に活躍し、高松宮記念などを制した。 == 戦績 == デビュー前から牧場での評価は高く丈夫であったが、順調すぎてかえって当時の記憶はあまり残っていないという。 1996年3月にデビューしたマサラッキは芝1600mの新馬戦を5着のあとダート1200mの未勝利戦と500万下条件戦を勝ち上がり初重賞挑戦となった中日スポーツ賞4歳ステークスを5着とまずますの走りを見せる。その後自己条件を勝ち上がりオープン入りした後、スワンステークスに出走し2番人気での3着と好走するが、ここからマサラッキのローテーションは出走規定に悩まされることとなる。 普通はここでGIでも期待されるのだが、当時のJRAのGI出走規定は実績馬に有利になっており、マサラッキのような上がり馬は賞金不足で除外されることが多かった。マイルチャンピオンシップはその不安が的中し除外されてしまい、スプリンターズステークスへの出走を確実にする為CBC賞に出走するが1番人気で3着と再び賞金加算に失敗する。その為スプリンターズステークスへの登録を見送ると、今度は出走馬がフルゲートに満たず登録していれば問題なく出走できていたという皮肉なことが起こった。 1997年は5月の高松宮杯から始動した。今度は運良く出走できたが、休み明けということもあって5着、続いて出走できた安田記念は7着と凡走する。 そして夏になり、1600万下条件へと降格したマサラッキは、格上挑戦で函館スプリントステークスを勝利し賞金加算に成功する。再びGI戦線に復帰したと思ったが休み明けのスワンステークスを賞金不足で除外されてしまう。そこで急遽福島の福島民友カップに出走するも3着、CBC賞では雨に脚をとられ10着と大敗、さらにこの年のスプリンターズステークスはフルゲートで除外となった。 1998年、阪急杯を勝利し今後のGIへの出走を確実とすると、満を持して名前が変わった高松宮記念に出走するも雨に祟られ10着に大敗する。秋は目標をスプリンターズステークス1本に絞りスワンステークス5着、CBC賞を勝利したがスプリンターズステークスは8着に凡走する。 明けて1999年、シルクロードステークスから始動するも6着となった。本番の高松宮記念では人気を落としたがついに念願のGIを勝利する。秋シーズン休み明けのCBC賞を2着と好走するもスプリンターズステークスは9着と凡走。休養をはさみ2000年は阪急杯5着から高松宮記念を前に再び休養、その後この年から秋開催となったスプリンターズステークス13着、スワンステークス5着と年3走するも精彩を欠き、マイルチャンピオンシップを前に再び休養となった。翌2001年は函館スプリントステークスで復帰し5着となり、結局このレースを最後に引退となった。 GI馬ながら、生産界ではネヴァーベンドの血を引く種牡馬の流行が廃れつつあったことや、本馬の母系も血統的な魅力が薄かったこと、父を同じくするミホノブルボンが種牡馬として成功できなかったこと、馬産地全体の不況もあって引退当初には引退後の用途が乗馬と発表され物議をかもした。その後故郷の日進牧場で種牡馬入りしたものの、2002年と2003年に計10頭種付けしたのみで、以後は種付けを行わなかった。受精能力が低く、10頭のうち誕生した産駒は2頭のみである。2頭はいずれも牝馬であり、そのうちの1頭であるナイスヴェスターが繁殖牝馬となり何頭かの地方競馬の勝ち馬を送り出している。2011年に用途変更して種牡馬を引退。引き続き日進牧場で余生を送る。 2015年12月3日、余生を送っていた日進牧場で病気のため死亡〔マサラッキが死亡 - ラジオNIKKEI・競馬実況web、2015年12月4日閲覧〕。22歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マサラッキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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