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マヨルカ王国(マヨルカおうこく、スペイン語:Reino de Mallorca)は、13世紀から14世紀にかけて、地中海に浮かぶマヨルカ島(マジョルカ、マリョルカとも)を中心としたバレアレス諸島に存在した王国である。 ==歴史== ===ジャウメ1世:建国=== マヨルカ王国は「征服王」として知られるアラゴン国王ハイメ1世が立てた国である。彼はイスラム支配下にあった地域の占領に邁進し、1229年からバレアレス諸島マヨルカ島への侵攻を開始する。1232年にはメノルカ島、1235年にはイビサ島を制圧した。長男アルフォンソの死後、彼は後妻ヨラーンとの間に儲けた2番目の男子ハイメのために与える国として1262年、マヨルカ領土をハイメに相続する意志を書き留めた。1276年のハイメ1世死去に伴い、アラゴン王国の王位は嫡男ペドロ(ペドロ3世(大王))に継承されたが、遺書に従ってマヨルカ王国はハイメに相続されることとなり、ハイメはマヨルカ王ジャウメ2世(Jaimeはスペイン語でハイメ、カタルーニャ語ではJaumeジャウメ)として即位した。また遺書では同時に、マヨルカ王国はアラゴン王国の従属国であることも明記されていた。 マヨルカ王国の主要部は、バレアレス諸島のマヨルカ島、メノルカ島、イビサ島、フォルメンテラ島などから構成されていた。しかしこうした島嶼部以外にも、マヨルカ国王は同時にルシヨン伯領とセルダーニュ伯領、およびオクシタニア(南フランスからスペイン北東部にかけての地域)内でハイメ1世が獲得したモンペリエ統治権、オーヴェルニュのCarlat子爵領、Aumelas男爵領も保有した。 しかしハイメ1世の遺したこのような遺産こそが、まさにその後隣国に翻弄され続けるマヨルカ王国の運命を決めてしまったといえる。なぜなら地中海と大陸に散らばる王国の飛び地は、当時しばしば領土紛争を起こしていた2つの大国フランス王国(カペー朝)・アラゴン王国の領土の合間に存在したからである。この王国の脆弱さを自覚していたハイメ1世は、在世中にセルダーニュを完全に征服して新しい王国に統合しようとした。またさらにサヴォイア家のアメデーオの娘ベアトリーチェと息子ジャウメとの縁談を進めたが、かなわなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マヨルカ王国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kingdom of Majorca 」があります。 スポンサード リンク
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