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1945年から1946年にかけて行われたベトナムでの戦闘は、イギリス側の作戦名マスタードム作戦(Operation Masterdom〔George Rosie and Bradley Borum, Operation Masterdom: Britain's Secret War in Vietnam〕)、あるいは北ベトナム側の呼称南方抗戦(〔Concert to mark 66th anniversary of the Southern Resistance War 〕)として知られる。第二次世界大戦後、日本の降伏を受けてインドシナ半島には政治的空白が生じていた。英印軍とフランス軍によるタスクフォースおよび現地に残留していた旧日本陸軍南方軍所属将兵は、インドシナ半島の支配を巡って共産主義勢力ベトミンと対峙した。 およそ45年間も続くことになるインドシナ戦争は、20世紀末を通じて世界的な注目を集めた。主にフランスによって戦われた1945年から1954年までの戦争、アメリカ合衆国の介入(ベトナム戦争)を経て1973年まで行われた戦争、1978年に行われたベトナムのカンボジア侵攻(カンボジア・ベトナム戦争)に端を発する戦争はそれぞれ第一次、第二次、第三次インドシナ戦争と呼ばれる。実際にはこれらに先立つ1945年から1946年にかけて、イギリスのサイゴン進駐に端を発する短期間ながら重要な紛争が発生していた。 ==フランスの凋落== 1945年7月、ポツダムにて連合国首脳陣による協議が行われ、インドシナ半島に展開する日本軍の降伏に関連し、北緯16度線を境界とした半島北部の監督を蒋介石(中華民国)、南部の監督を(SEAC)総司令官ルイス・マウントバッテン(イギリス)に委任した。連合各国はフランスがフランス領インドシナの正当な領有国である点について合意していたが、大戦を通じて枢軸国に国土の大半を占領されたことで植民地を支配するだけの国力を喪失しているとも考えられていた。このため、再進駐を行うフランス当局を支援するべく英印軍がインドシナ半島に派遣されることとなったのである〔Joseph Buttinger, ''Vietnam: A Dragon Embattled'' (New York: Praeger, 1967), p. 244.〕。 マウントバッテンはサイゴンに派遣する(占領行政当局)、および歩兵を主力とする仏印連合地上軍(Allied Land Forces French Indochina, ALFFIC)の編成を命じた。これらの組織はサイゴン周辺における治安維持および日本軍部隊の武装解除、連合国軍捕虜の解放および支援をその任務と定めていた〔。 委員会当局の関心は、もっぱら東南アジアにおける日本陸軍司令部の解体と連合国軍捕虜への人道支援に向けられていた。委員会議長には英印軍長少将が選ばれ、第20師団の下級編成であるD・E・ターントン准将(D.E. Taunton)指揮下のが最初のALFFIC所属旅団としてベトナムへ派遣されることとなった。 1945年8月末までに東南アジア各方面での占領任務に割り当てられたイギリス軍部隊は準備を終え、一部は既に出発していた。しかし連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーがSEACに対し、東京にて正式な日本の降伏手続きが行われるまで再進駐を控えるように要請したため、正式な占領任務の開始は8月28日と改められた。また、その後台風の影響で9月2日まで延期されている。 マッカーサーの要請により連合国軍のベトナム到着が遅延したため、捕虜の解放は遅れ、8月15日以降は様々な現地勢力による政治的空白地帯の支配が進められた。こうした情勢下で最も利益を受けたのが共産主義勢力であった。ホー・チ・ミン指揮下のベトミンは独自の政府を成立させるべく、他勢力を駆逐してハノイやサイゴンの確保を目指した〔Marvin E. Gettleman, ed., Vietnam (Greenwich, Connecticut: Fawcett, 1065), pp. 65–66.〕。 連合各国はフランスのインドシナ領有を認めていたが、再進駐についてはアメリカ合衆国からの反対があった。この時点でアメリカ政府は公的な立場において共産主義勢力であるベトミンへの敵意を明らかにしてはいなかった〔Lloyd C. Gardner, Approaching Vietnam (New York. Korton, 1988), p. 25.〕。 マッカーサーによる降伏文書調印式は9月2日に戦艦ミズーリ艦上で行われ、3日後には各地の捕虜収容所に対して支援物資のパラシュート投下が行われた。更に翌日、ALFFIC先遣隊がサイゴン入りし、11日には旅団主力がビルマのモビ飛行場(Hmawbi Field)からバンコク経由でサイゴンまで輸送された。サイゴンでは未だ武装を保った日本軍とベトミン軍の将兵によって連合国軍部隊の歓迎式典が行われた。これに先立つ同年3月、日本軍はマニラを陥落させたアメリカ軍によるインドシナ半島侵攻への警戒と仏印当局への不信感から、従来協同で警備を行っていた現地フランス軍部隊を3月9日に解散させていた(明号作戦)。このため、連合国軍再進駐の時点でも日本軍部隊の武装解除は一切行われていなかったのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マスタードム作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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