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マダバ(, Madaba)はヨルダン西部の都市でマダバ県の県都。首都アンマンの南西35km、死海の東の台地上に位置する。人口は約60,000人でヨルダンでは第5位。 東ローマ帝国時代およびウマイヤ朝時代のモザイクが残ることで知られており、特に東ローマ帝国時代のパレスチナおよびナイル川デルタを描いた、モザイクでできた大きな地図(マダバ地図)が有名。'', Madaba)はヨルダン西部の都市でマダバ県の県都。首都アンマンの南西35km、死海の東の台地上に位置する。人口は約60,000人でヨルダンでは第5位。 東ローマ帝国時代およびウマイヤ朝時代のモザイクが残ることで知られており、特に東ローマ帝国時代のパレスチナおよびナイル川デルタを描いた、モザイクでできた大きな地図(マダバ地図)が有名。 == 歴史 == マダバ周辺には新石器時代以来人が住み続けた。マダバの街は青銅器時代中期に遡り、かつてはモアブの境にある町で、旧約聖書の民数記21章30節およびヨシュア記13章9節では「メデバ」の名で登場する。 ナバテア王国の支配下にあったマダバは106年にローマ帝国に支配されアラビア属州に編入され、7世紀まで東ローマ帝国により統治された。その後はイスラム帝国およびウマイヤ朝の統治するパレスチナの一部となった。 マダバのキリスト教徒共同体や司教に関する最古の言及は、451年のカルケドン公会議の記録の中にみられる。この地方の主都ボストラの大司教のコンスタンティンは、「メダベニ」(Medabeni)司教ガイアノに代わり署名を行っているが、このメダベニが現在のマダバにあたる。 746年の大地震で破壊されその後は再建されず廃墟となったが、1880年に2人のイタリア人司祭に率いられた90家族のアラブ人キリスト教徒がカラクからこの地に移り住み、以後、現代のマダバの街が古代の町の跡に築かれていった。また廃墟の中からモザイクなどが発見され、乏しい文献資料を補う考古学的発見が続いた。1897年の時点で10カ所の教会の跡があったが、現在では拡大した市街地の中に取り込まれてしまっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マダバ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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