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サー・マックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Sir Max Edgar Lucien Mallowan, CBE、1904年5月6日 - 1978年8月19日)は、イギリスの考古学者で、特に古代中東史を専門とする。また、アガサ・クリスティの2番目の夫でもある。 == 生涯 == エドガー・マローワン (Edgar Mallowan) として、1904年5月6日、ロンドンのワンズワースに生まれる〔Index of Births England and Wales 1837-1915 〕。ランシング・カレッジで学び(イーヴリン・ウォーと同期)、オックスフォード大学ニュー・カレッジで古典を学んだ。 メソポタミア文明の首都と見なされていたウルの発掘現場(1925年 - 1931年)で、レオナード・ウーリーの弟子として働いた。その発掘現場で1930年、アガサ・クリスティに初めて会い、同年中に結婚している。1932年、Reginald Campbell Thompson と共にニネヴェの現場で働いた後、大英博物館と British School of Archaeology in Iraq が共同で企画した一連の調査で現場監督を務めた。発掘した場所としては、Tell Arpachiyah の先史時代の村、シリアのハブール川流域にあるチャガル・バザールやテル・ブラクがある。バリフ川流域の考古遺跡の発掘も初めて行った。 第二次世界大戦が勃発すると、英国空軍志願予備軍に入隊して北アフリカに行き、1943年の一時期には古代都市サブラタを基地とした。1941年2月11日には少尉、1941年8月18日には中尉、1943年4月1日には大尉となった。その後中佐となり、1954年2月10日に退役する際、その階級を保持することを許された。 戦後の1947年、ロンドン大学の西アジア考古学の教授となり、1962年にはオール・ソウルズ・カレッジ (オックスフォード大学)のフェローとなった。同じく1947年から1961年まで、British School of Archaeology in Iraq の理事を務め、かつてオースティン・ヘンリー・レヤードが発掘したニムルードの調査を再開し、''Nimrud and its Remains'' を出版した(2巻、1966年)。 マローワンはそれまでの仕事の集大成として ''Twenty-five Years of Mesopotamian Discovery''(1956年)を出版し、妻のアガサ・クリスティはシリアでのマローワンの仕事について ''Come, Tell Me How You Live''(1946年)を出版した。 1976年にアガサ・クリスティが亡くなると、マローワンは翌年、長年の愛人だった Barbara Hastings Parker と結婚した。彼女は考古学者であり、British School of Archaeology in Iraq で彼の秘書を務め、ニムルードでも助手を務めていた。 1960年、女王の誕生日の記念としてマローワンはCBEを授与され、1968年にはナイトに叙された。74歳のときオックスフォードシャーのウォリングフォードで死去。妻の Barbara Mallowan は1993年、85歳で同地で亡くなった〔Deaths England and Wales 1984-2006 (subscription required)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マックス・マローワン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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