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マックス・ヴェーバー(Max Weber、1864年4月21日 - 1920年6月14日)は、ドイツの社会学者・経済学者である。マックス・ウェーバーと表記されることもある(正式な名前はカール・エミール・マクスィミリアン・ヴェーバー (Karl Emil Maximilian Weber)。マックスはマクスィミリアンの省略形である)。同じく社会学者・経済学者のアルフレート・ヴェーバーの兄である。 社会学の黎明期のコントやスペンサーに続く、第二世代の社会学者としてエミール・デュルケーム、ゲオルグ・ジンメルなどと並び称される。 == 略年譜 == *1864年 プロイセン王国エアフルト〔エアフルトは、宗教改革者マルティン・ルターが大学生活を送り、卒業後、アウグスティヌス会の修道院に入って、真摯な修道生活を送ったところ。町中の至る所に大小さまざまな尖塔がある。中心の丘の上に、この町を象徴する大聖堂が聳え立っていて、宗教的な雰囲気を醸し出している。また、東独に属していたので、ソ連の宇宙飛行士の名を取ってユリ・ガガーリン環状路10・12番がヴェーバーの生まれた家跡の番地である。生家跡であることを示す金属製の案内板が取り付けられていて、マックスと弟アルフレットの名前が浮き彫りにされている。(長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 30-31ページ)〕にて、父は政治家、母は上流階級出身の敬虔なプロテスタントの裕福な家庭に長男として生まれる。 *1865年 2歳の時脳膜炎にかかり、華奢でひ弱な体に不釣り合いな大きい顔をしていた〔長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 30ページ〕。 *1869年 5歳の時、エルフルトからベルリンのシャルロッテンブルグ・ライプニッツ・シュトラーセへ引っ越した。「家庭」から「社会」へ出た。並外れて早熟だった〔長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 39ページ〕。 *1876年 12歳の時、マキャベリの『君主論』を読み、哲学書では、スピノザ、ショーペンハウエル、カントに進んだ。少年時代は、シャルロッテンブルクの家で読書に多くの時間を費やした〔。 *1879年 15歳の時、読むだけでなく資料を集め、それを元にして歴史論文「インドゲルマン諸国民における民族性格、民族発展、および民族史の考察」を書いた〔。大学入学前に王立王妃アウグスタ・ギムナジウムで学ぶ。 *1882年 18歳の時、ハイデルベルク大学、ベルリン大学等で法律学、経済史などを学ぶ。〔学制仲間と祝杯挙げる、浮かれ騒ぐ、そのうちに霙(みぞれ)の道に滑って足の骨を折って入院などで、結局大学の講義を大して聞かないままハイデルブルクを去り、家帰ると母親ヘレーネにいきなり平手打ちを食うような状態であった。(長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 68-70ページ〕。 *1883年 19歳の時、シュトラスブルク〔アルザス地方の中心都市でフランス名ストラスブール、アルホンス・ドーテの短編『最後の授業』で有名〕にて予備役将校制度の志願兵として1年間の軍隊生活を送る〔プロイセンで高級官僚になるための道程としては大学生活の内一年間の兵役を済ませておかねばならなかった。そこでこれまで経験したことのないような屈辱と辛酸を味わった。しかし、身体は疲労困憊していても、頭脳は疲れていないので目が冴えハイネやツルゲーネフを読んだ。この一年志願兵の衛兵勤務ははなはだ金のかかるものだった。送金依頼の手紙二は軍隊生活の実態をときにはユーモアを交えて書き、シュトラスブルクの親戚の様子も報告する長文の手紙を書いた。(長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 76、80・82ページ)〕。将校任官試験を最優等の成績で合格し、予備役将校の資格を持つ下士官に昇進した〔長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 90ページ〕。 *1889年 「中世商事会社史」で博士の学位を取得、テオドール・モムゼンより、「わが子よ、汝我にかわりてこの槍を持て」という祝辞を送られる。 *1892年 ベルリン大学の私講師となり、ローマ法と商法を講義。「東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態」(社会政策学会による農業労働者調査報告)。 *1893年 マリアンネと結婚。 *1894年 30歳の若さでフライブルク大学の経済学正教授として招聘される。フライブルクの同僚には哲学者のハインリヒ・リッケルトがいた。 *1895年 フライブルク大学での教授就任講演「国民国家と経済政策」で賛否両論の大きな反響を引き起こす。 *1896年 ハイデルベルク大学に招聘される。 *1898年 実父との確執から神経を病み、大学を休職しサナトリウムで静養。 *1903年 病気のためハイデルベルク大学の教職を辞して名誉教授となる。 *1904年 ようやく病気から癒え、新たな学問活動を再開。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表。セントルイス万国博覧会の際に開かれた学術会議への出席のためアメリカに旅行し、そのついでにアメリカのプロテスタント諸派を調査。ヴェルナー・ゾンバルトやエドガー・ヤッフェらと共に、「社会科学・社会政策雑誌」(Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik)の編集に従事し始める。 *1905年 第一次ロシア革命に際し、ロシア語を習得。 *1906年 ネッカー川の畔の家に移り、知的サークルの中心的存在として、エルンスト・トレルチやカール・ヤスパースらと交わる。ロシア革命に関する諸論文を執筆・公表。 *1910年 「経済と社会」に含まれる諸論文の執筆を開始。 *1911年 「世界宗教の経済倫理」の執筆を開始。 *1914年 第一次世界大戦勃発。この大戦の引き金となったセルビア人青年によるオーストリア皇太子暗殺の報を聞いたとき、ヴェーバーはしばらくの間沈痛な面持ちで黙想した後、「神よ、われわれを地獄に落とす愚か者たちからわれわれを守りたまえ」と発した〔長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 22ページ〕。活発に政治的発言を行うのと同時に、翌1915年にかけてハイデルベルクの陸軍野戦病院で軍役を行う。1日13時間ずつ、1年間に2日しか休みを取らなかった〔。 *1916年 「儒教と道教」「ヒンドゥー教と仏教」を発表。 *1917年 「古代ユダヤ教」を発表。軍務を退いた後、学問・研究に専心する傍ら「フランクフルト新聞」に、ヴェーバーが戦争を通じて見て取ったドイツ政府と議会システムの根本的な欠陥を指摘した政治論文を発表した。論文は4月から7月にかけて分載された。〔長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 23ページ〕。「国家社会学の諸問題」(10月25日、ウィーン、未公表)、「職業としての学問」(11月7日、ミュンヘン)を講演。この講演内容の出版は1919年。 *1918年 ウィーン大学に招聘される。敗戦を迎え、5月に新聞分載の政治論文を加筆し『新秩序ドイツの議会と政府』が刊行された〔。 *1919年 ミュンヘン大学に招聘され、そこで「職業としての政治」(1月28日)を講演。この講演内容の出版は1919年。 *1920年 ミュンヘンで「スペインかぜ」(第一次世界大戦末期~戦後にかけてパンデミック流行したインフルエンザの一種)に因る肺炎のため死去。56歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マックス・ヴェーバー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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