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マット・キルロイ(Matthew Aloysius Kilroy, 1866年7月21日 - 1940年3月2日)は、主に1880年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手。ポジションは投手。ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。左投げ左打ち。ニックネームは"Matches"(マッチ)。1886年にアメリカン・アソシエーションで、メジャーリーグ史上唯一となる『シーズン500奪三振』を達成した。 ==略歴== 1886年、20歳の時に当時のボルチモア・オリオールズ(現存せず)に入団、チームの先発投手として68試合に登板して66試合を完投、1年目から600イニングス近くを投げた。この年の勝敗は29勝34敗で、負け数と自責点はリーグ最多だったが、ルイビル・カーネルズの投手だったトード・ラムジーと奪三振の数を争い、キルロイのシーズン奪三振数は実に513にも達した。同年のラムジーの奪三振数は499で、キルロイはメジャーリーグでシーズン500奪三振を達成したただ一人の投手となった。またこの年の10月6日の試合では、ピッツバーグ・アレゲニーズ(現パイレーツ)を相手にノーヒットノーランも達成した。 翌1887年にも69試合に登板(66試合完投)したキルロイは、46勝19敗の成績を上げ、この年のアメリカン・アソシエーションの最多勝利投手となり、前年最下位に沈んだオリオールズをリーグ3位に躍進させた。この年の奪三振数は217で、前述のトード・ラムジーに次ぐリーグ2位の成績だった。同年10月1日には、ダブルヘッダーの両方の試合に登板、1日で2勝を挙げるという快挙も成し遂げている。翌日の10月2日には審判を勤めたという記録も残っている。 1888年4月9日に結婚。この日キルロイはフィラデルフィアで挙式をする予定だったが、当日朝にオリオールズとの契約の予定が入り、彼は契約を済ませた後ボルチモアからフィラデルフィアに移動してその日の夜に式を上げ、翌日からそのままオリオールズのキャンプに参加したという。この年は登板も40試合ほどに減ったが、翌1889年には再び59試合に登板し29勝を上げている。 1890年にキルロイはプレイヤーズ・リーグに参加したが、9勝15敗の成績に終わる。その後はそれまでの投げすぎもあって登板は年数試合程度にとどまった。1894年を最後に一旦メジャーから降格し、3年後の1898年にシカゴ・オーファンズ(現カブス)で6勝7敗の成績を挙げ選手を引退した。引退後は故郷フィラデルフィアで暮らし、1940年に73歳で亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マット・キルロイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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