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マッハ文朱(マッハふみあけ、1959年3月3日 - )は、日本の女優、タレント、歌手、司会者。元女子プロレスラー。本名は渡辺 文枝〔本名を「渡辺文枝」と表記しているサイトや書物等が多いが、1980年前後に某テレビ番組で本名を聞かれた時は、「渡辺文朱です」と答えていた。〕。熊本県天草郡大矢野町(現・上天草市)生まれ。血液型はB型、身長174cm〔Yahoo!人物検索 〕。三人姉妹の次女。 小学校時代に東京都葛飾区に転居、葛飾区立半田小学校 - 葛飾区立金町中学校 - 東海大学付属望星高等学校卒業。1993年、パイロットの台湾系アメリカ人ロバート・チャンと結婚。現在、2人の娘の母。長女は宝塚歌劇団星組の桃堂純。アメリカ在住の次女はジュニア・オレンジ・ボウルに優勝したテニスプレーヤーYuki Chiangである。 == 来歴 == 歌手志望で、1972年、13歳の時、『スター誕生!』に出場し、決戦大会(本戦合格者が出場する、芸能事務所・レコード会社参加の最終審査)まで進出したが、スカウトのプラカードは挙がらなかった。同決戦大会に山口百恵が出場していたことから後に「山口百恵に敗れた」という形容で呼ばれるようになった(なおスター誕生は「勝ち抜き戦」ではなく審査は個別に行われるもので、直接対決に敗れたのではなく20社のスカウトが集中した山口との対比を指した比喩である)。 おじがゴルフをやっていて、ゴルファーになることが決まっていたが、姉が「女子プロレスラー募集」という週刊誌の小さい募集記事を見つけてきた。1974年、15歳の時、姉に勧められ、一転して全日本女子プロレスに入門(結果的に芸能界に縁のあった者や志望者がプロレスに入門するというケースのはしりとなり、ミミ萩原、アストレスなどがそれに続いた)。2011年10月1日付の『朝日新聞』の特集「うたの旅人」におけるインタビューで文朱はプロレス転身について、『スター誕生!』決戦大会後に番組プロデューサーから「いまはかわいい一辺倒のアイドル全盛だから、君は大人っぽくて中途半端だ」と言われたことから、体格と運動神経を生かしてスポーツの路に進むしかないと見極めがついた、と語っている。リングネーム「マッハ文朱」は、巴ゆき子の命名によるものであった。 公称180cmという長身、ルックスの良さ、もって生まれたスター性、前述のごとく歌も歌えることなどからすぐに注目され、旗揚げ後苦難が続いた同団体初のアイドルスター選手となり、従来の女子プロレスのイメージを変え、TVの人気も上がり、同団体の経営が確立した。圧倒的な体格・体力だけでなく格闘技歴があったため、相手選手を壊さないように気をつけながらリングに上がっていたと本人は発言している。 1975年3月19日、WWWA世界シングル王座(第17代)獲得。同年4月15日、赤城マリ子とのタッグでWWWA世界タッグ王座(第61代)獲得。選手として強いだけではなく、プロの歌手としてレコードも出しそれをヒットさせ、試合後にリングで歌を披露するなど、それまでの女子プロレスラーにはなかった明るいアイドル性も備えており、女性ファンも多数獲得した。マッハの活躍で全日本女子プロレスの隆盛が始まり、後のビューティ・ペアやクラッシュギャルズの雛形的な存在だったと言える。同年、東映映画『華麗なる追跡』で映画デビューも果たした。 1976年、「マッハ文朱」を名乗ってわずか2年8ヵ月でプロレスを引退。すぐに人気タレントとなる。映画『トラック野郎・天下御免』(シリーズ4作目)に序盤のシーンで一番星号とワッパ勝負をする女ミキサー運転手として出演、菅原文太を投げ飛ばす。 1977年に東京12チャンネルと契約してリング復帰。異種格闘技戦を戦うが、長続きしなかった。 空手初段であり、大山倍達の指導を受けた経験を持つ。空手の他に、柔道初段、合気道3段も取得している。 1984年、25歳の時、タレント業を休業し、ニューヨークのハンター大学に1年間、語学留学。ブロードウェイに通いダンスを学ぶ。1989年から1992年にかけて、ロサンゼルスのペパーダイン大学にて健康心理学、南カリフォルニア大学にて経済学を学ぶ。1993年、大学関連のパーティーで知り合った男性と結婚。1994年2月に長女、1995年8月に次女を共に台湾で出産。のちにアメリカに移住。 2013年7月18日のDDT両国国技館大会にて赤井沙希がデビューすると知り、帰国して観戦した〔おどろき! 〕。10月には20年振りに日本で本格的にタレント活動を復帰することを雑誌『女性自身』のインタビューで語り、2014年に芸能復帰。活動再開後は生島企画室に所属。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マッハ文朱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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