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マツダスピード : ミニ英和和英辞書
マツダスピード[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マツダスピード : ウィキペディア日本語版
マツダスピード[ちょうおん]
マツダスピードは、かつて存在したマツダ系列のモータースポーツ会社。マツダ車のディーラーである「マツダオート東京」(後のアンフィニ東京、現・関東マツダ)が母体となって誕生した。
== 歴史 ==
1968年、マツダオート東京がモータースポーツ相談室を開設し、大橋孝至寺田陽次郎が常駐する。この年に販売開始したファミリア・ロータリー・クーペ用のスポーツキットの取り付け加工を行うマツダ・スポーツ・コーナーとしての営業を開始。ツーリングカーレースへの対応業務を実施。
1973年よりシグマ・オートモーティヴ(現在のサード)がル・マン24時間レースシグマMC73で参戦する際にエンジン供給を行ったことがきっかけで2座席オープンレーシングレースに関わるようになった。この年の夏にシグマ・オートモーティヴから2座席オープンレーシングのシグマGC73を購入し、富士グランドチャンピオンシップへの本格参戦を開始。同年シグマ・オートモーティヴと共同でル・マン24時間レースにシグマMC74で参戦。国産マシンとしてチェッカーフラッグを受けるが、周回数不足のため完走にはならなかった。ルマン24時間レース史上初のレース途中でのエンジンのオーバーホールを行った。
1978年、デイトナ24時間レースにRX3で挑戦するがリタイヤ。次年度のル・マン24時間レースの予行演習として参戦。
1979年にマツダオート東京のスポーツコーナーが「マツダスピード」と名称変更。マツダスピードとして正式にル・マンにエントリーするが(マシンはマツダ・RX-7の改造車RX-7 252iでグループ5で参戦)、準備不足がたたって予選不通過に終わる。この頃はまだメーカーワークスと言えるような体制ではなく、むしろディーラーチームの体裁であった。
1982年、RX-7の改造車 RX-7 254で参加し、国産車で初めて正式にル・マン24時間レースを総合14位で完走する。これをきっかけに、チームの組織強化が進められた。1983年にマツダの前身・東洋工業、マツダオート東京ほかの出資で「株式会社マツダスピード」として法人化し、大橋監督、田知本チーフメカニックの下、正式にスタートする(当時の車はムーンクラフト由良拓也がデザインを担当)。
その後、徐々にメーカーから技術者が送り込まれるようになり、マツダ・ファミリア4WDをベースにしたグループAによる世界ラリー選手権(WRC)や、グループCによる全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)・スポーツカー世界選手権(SWC)参戦を果たすなどマツダのモータースポーツ部門としての地位を確立した。
1991年、マツダ787Bでル・マン24時間レースに参戦し、フォルカー・ヴァイドラー/ジョニー・ハーバート/ベルトラン・ガショーのトリオが2015年現在日本車による唯一の総合優勝を飾るなど華々しい活躍を見せる。
1992年、マツダ初のレシプロレースカー・MX-R01で、ル・マン24時間、JSPC、SWCに参戦。マツダとしては初のレシプロレーシングカーのため、苦戦を強いられると思われたが、長年の経験を生かし、WSPCのシルバーストンで2位。ル・マンでも、前年の勝者(バイドラー、ハーバート、ガショー)がドライブする5号車が、一時首位を走り、最終的にはトラブルで順位を落とすも4位入賞と健闘。しかし、JSPCでは、日産やトヨタを前に苦戦を強いられた。この年、マツダはJSPC撤退を表明。またこの年、タイヤをダンロップからミシュランへ変更。
マツダの経営不振によるモータースポーツ活動縮小のあおりを受け、マツダの市販車向けアフターパーツの販売やプライベーター支援活動のみに規模を縮小。ル・マン24時間レースへの連続参戦も12年で停止。以後のル・マン24時間レースには、マツダ本社の援助はなくアメリカでIMSAにロータリーエンジンで参戦していたジム・ダウニングと共同で参戦を実施。1994年にIMSA・GTO仕様のRX7(4ローター)で総合15位、1995年にプロトタイプのDG3(3ローター)で総合7位、1996年にプロトタイプのDG4(3ローター)で総合25位、1997年にプロトタイプのMS97(4ローター)で総合17位という結果でル・マン24時間レースへの参戦に終止符を打つ。
1999年7月にマツダ本体に吸収される形で、法人および組織としての「マツダスピード」は消滅し、スタッフも殆どが退社してしまい、ソフトウエアとハードウエアともにマツダから失われた。
マツダへの統合後は、マツダ車専用チューニング・パーツのブランド名、限定仕様車や走行性能を特に高めた市販車のブランド名称として「マツダスピード」が使われているのみであり、ルマンで優勝したマツダスピードとは無関係である。「マツダスピード」ブランドのカスタマイズパーツの製造は、外部への委託や福祉車両などを製造していたマツダ産業(現在のマツダE&T)が行っている。
また、マツダ車ユーザー向けイベント(サーキットトライアル)としてマツダファン・サーキットトライアルが開催されているが、これはイベント開催業者(B-Sports)への委託で開催されており、ロードスターRX-8パーティレースなどと同様に、マツダが主管しているものではない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マツダスピード」の詳細全文を読む




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