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マティアス・ルスト(, 1968年6月1日 - )は、西ドイツのパイロット。冷戦のさなか1987年にフィンランドのヘルシンキからソビエト連邦のモスクワまで小型飛行機を操縦し、赤の広場に着陸したことで知られている。本項目ではルストが起こしたこの飛行事件についても記述する。 == 来歴 == 西ドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州ヴェーデル生まれ。ハンブルクで育つ。 事件は1987年5月28日に起きた。当時19歳のルストはハンブルクでセスナ172B型機をレンタルして離陸、まずはフェロー諸島、アイスランド、ノルウェー、フィンランドへと飛行し、フィンランドのヘルシンキ・マルミ空港でセスナ172B型機の燃料を給油し、ストックホルムへ向かうことを管制官に告げ離陸した。 しかしルストは機首を東に向け、まもなくフィンランドの管制空域から機影が消えた。ルストはバルト海沿岸に沿って飛んだのち、モスクワへと向かった。フィンランド国境警備隊はルストの機体が消えたシポー付近で、ただちに捜索を開始し、海底をさらってまで捜索をしており、後にルストはそれに要した費用として10万ドルを請求されている。 この日は偶然ソビエト連邦の国境警備隊の休日であり、警備が緩んでいた隙をついて機体はモスクワまで妨害を受けずに飛行した。また、戦闘機が追尾していたが、速度差が大きく度々見失った上に、1983年に起きた大韓航空機撃墜事件〔ソ連空軍の戦闘機がソ連領空を侵犯した大韓航空の民間航空機ボーイング747をサハリン近海で撃墜し、大韓航空機の乗員・乗客269名全員が死亡した事件。また、1978年には北西部のコラ半島上空でやはりソ連領空を侵犯した大韓航空のボーイング707をソ連空軍機が銃撃し、死者2名を出した大韓航空機銃撃事件も発生し、ソ連軍の対応に対し西側諸国からの強い批判が寄せられていた。〕後のことであり、あからさまに民間機である彼の機体への攻撃がためらわれ、交戦許可が下りなかったこともある。5時間にわたるソ連上空飛行ののち、ルストは機体をソ連の中枢であるクレムリンに隣接する赤の広場に着陸させた(正確には人だかりを避けて100mほど離れた橋に着陸し、機体を赤の広場の観光バス用駐車場まで移動させた)。着陸後のルストは直ちに逮捕された。 ソ連国境警備隊はセスナ172B型機の侵入を把握していたが、適切な決定が下されなかった。当時ソ連の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長はこの事件を好機ととらえ、グラスノスチやペレストロイカに反対していたセルゲイ・ソコロフ国防相およびアレクサンドル・コルドゥノフ防空軍総司令官を解任した。そのため、わざと見逃したと言う陰謀論までささやかれた。また、この事件を契機に党に対する軍の優位が揺らいだ〔ソコロフの後任にはドミトリー・ヤゾフ国防次官が昇格し、若返りが図られた。ヤゾフは当初は冷戦終結の方向へ進むゴルバチョフを支持していたが、次第に保守化し、1991年のソ連8月クーデターに参加した。〕ことから、この事件が冷戦終結につながったとする論調も見られる〔http://www.airspacemag.com/history-of-flight/rust.html?c=y&page=1〕。 裁判は9月2日にモスクワで始められた。ルストは飛行の目的を「東西の対立を解消し平和をもたらす為である」と述べた。ルストは暴力行為、航空法違反、不法入国の罪で4年間の懲役を命じられた。432日間の懲役生活のあとアンドレイ・グロムイコ外相(最高国家評議会議長)の恩赦を受けてルストは国外退去処分となり、1988年8月3日に西ドイツに戻った。 帰国後ルストは良心的兵役忌避のためハンブルクの病院で奉仕活動に従事したが、その最中の1989年に交際を断わられた看護婦をナイフで刺し、2年半の懲役刑となった。釈放後はソビエト崩壊後のロシアへ渡るなどしていたが、その後の人生もトラブルが続き、2001年にも万引きで罰金刑を受けている。現在は結婚してベルリンに居住し、オンラインポーカーの賞金で生計を立てている模様。その後もたびたび放送局などのインタビューに応じている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マチアス・ルスト」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mathias Rust 」があります。 スポンサード リンク
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