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マティリアル(1984年4月4日 - 1989年9月14日)は日本の競走馬。1987年のスプリングステークスで最後方の位置から差し切り勝ちを収め、同年のクラシック路線で人気を博す。2年以上の低迷期を経て、1989年の京王杯オータムハンデキャップで勝利を挙げたが、ゴール後に右前脚を骨折。治療が試みられたが術後の経過で大腸炎を発症し死亡した。 ''※馬齢は日本で2000年以前に使用された数え年で記述する。'' == 経歴 == === 生い立ち === 1984年4月4日、北海道門別町のシンボリ牧場で生まれる。父は過去3度のリーディングサイアー獲得した実績を持つパーソロン、母の父は1960年代に八大競走で4勝を挙げたスピードシンボリで、この血統構成は、本馬の誕生から11日後に皐月賞を制し、のちに中央競馬史上初の「七冠馬」となるシンボリルドルフと同じものであった。当年シンボリ牧場で誕生した生産馬には4頭の「一軍候補」があったが、なかでも本馬は頭ひとつ抜けた存在として期待された〔『優駿』1987年5月号、pp.152-153〕。2歳秋になり育成調教のため千葉県のシンボリ牧場本場へ送られると、特別な馬のみが入るふたつの馬房に、同年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬シリウスシンボリとともに収められた〔広見(1991)p.28〕。 本馬に惚れ込んだ美浦トレーニングセンター所属の調教師田中和夫が自身の管理馬とすべく馬主を探し、かねてシンボリ牧場と親密だったさくらコマース会長の全演植に購買を勧めた〔渡辺(2004)pp.206-208〕。この交渉は牧場側の評価額と全の希望額との折り合いが付かず破談となったが、その後も牧場を訪れる田中の様子に、場主の和田共弘が自らの所有で田中に任せることを約束した〔。田中はその第一印象について「ひと目で気に入りました。じつに垢抜けた体をしていて、顔もいい。すばらしい馬に会うと、びりびりと感じるものがあるのですが、この馬はそうだった。これは必ず、ひとかどの馬になると思いました」と述懐している〔。 1986年、競走年齢の3歳に達して競走名を付けるに際し、和田は本馬を将来フランスで走らせることを念頭に、冠名の「シンボリ」を付けず「素材」を意味する「マティリアル」(Material)と命名した〔〔。なお、和田はもともと、同期生産のマルゼンスキー産駒・ボビンスキーと一緒に、最初からフランスでのデビューを考えていたともいい、その後ボビンスキーのみ実際にフランスへ送られている〔松永(2000)p.238〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マティリアル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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