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チェンナイ(、)は、南インドの東側コロマンデル海岸沿いの、ベンガル湾に面するタミル・ナードゥ州の州都。インド有数の世界都市であり、人口は468万人。2011年の都市圏人口は867万人であり、同国第4位である〔。1996年にマドラス () から正式に改名された。 「南インドの玄関口」「南アジアのデトロイト」「インドの健康首都」「インド銀行業の首都」の異名を持つ。自動車産業、情報技術産業、ビジネス・プロセス・アウトソーシング業が盛んである。 == 歴史 == チェンナイ周辺は、1世紀頃から都市として存在し、パッラヴァ朝、チョーラ朝、パーンディヤ朝、ヴィジャヤナガル王国などの諸王朝に治められていた。特に周辺は、パッラヴァ朝の主要な港として重要な位置にあった。 1522年ポルトガルがこの地の近くに要塞を建設し、この地に到って活動し死去したと伝説されるキリスト教のイエスの使徒の一人聖トマスに因んで、サン・トメ要塞と名付けた。 この地はもともとチェンナイとは呼ばれておらず、その名は16世紀のある英雄の名前に由来した。1565年以降、ヴィジャヤナガル王国がターリコータの戦いでムスリム5王国に大敗したのち、隣接するビジャープル王国、ゴールコンダ王国の侵入が頻発していた。チェンナイ近くの領主は、衰退するヴィジャヤナガル王国のために、ビジャープル王国とゴールコンタ王国の侵入軍と日々戦っていた。 そんな中、1580年、ゴールコンダ王イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャーが大軍をヴィジャヤンガル王国に派遣してきた。ダーマルラ・チェンナッパ・ナーヤカはこの一大侵攻を食い止めるため、ゴールコンダの大軍と奮戦し、自らの命と引き換えに撃退して王国を守ったのだった。 後を継いだ息子のダーマルラ・ヴェンカタ・ナーヤカは、王国の忠臣だった父の死を悼んで、父の名の一部「チェンナッパ」をとって、この地を「チェンナッパッタナム (Chennapattanam)」と名付けたのだった。それがこの都市の名の由来で、のちに「チェンナイ」とよばれるようになるのである。 1639年8月22日、イギリス東インド会社がダーマルラ・ヴェンカタ・ナーヤカからその中間の土地を取得し、1640年にセント・ジョージ要塞を建設し、チェンナイから「マドラス」と改名した。そして、この要塞を中心に、徐々に市街地が広がっていくことになった。 1746年、モーリシャスの総督であったフランスの将軍が侵攻し、セント・ジョージ要塞とマドラス市街および周辺村落を占領したが、1748年オーストリア継承戦争の結果結ばれたアーヘン和約に基づき、1749年イギリスはマドラスの支配を回復した。 この経験によってイギリスは、セント・ジョージ要塞の規模を拡張し、更なるフランスの侵攻およびマイソール王国支配者ハイダル・アリーの侵攻に備えた。 この要塞を拠点として、18世紀末までにイギリスは現在のタミル・ナードゥ州、アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州にあたる地域に勢力を拡大し、マドラス管区を設置してマドラスをその首府とした。 イギリス支配の下でマドラスは、マドラス管区の中枢として、また海軍基地として発展した。19世紀後半の鉄道敷設に伴い、ボンベイ(現在のムンバイ)やカルカッタ(現在のコルカタ)などのインドの他の重要都市や内陸の諸地域と連結した。第一次世界大戦中には、石油貯蔵庫がドイツの軽巡洋艦エムデンによって砲撃され、中央同盟国によって攻撃されたインドにおける唯一の都市となった。 1947年の独立後、マドラスはの州都となり、1965年から1967年には、インド全土のヒンディー語公用語化に反対する拠点となる。1968年にマドラス州はタミル・ナードゥ州となり、マドラスはその州都としてとどまる。 スリランカ内戦に伴い、マドラスでは時折政治的な暴力事件が発生する。1984年にタミル・イーラム解放のトラによって空港に仕掛けられた爆弾により33人が殺害された事件を始め、1991年にはイーラム革命的解放人民戦線のメンバー13人と民間人2人が殺害されるなどの事件が発生している。これに対し当局は断固とした処置を行い、以降マドラスでは目立ったテロリストの活動は見受けられない。 1996年8月、都市名のマドラスは、植民地支配に由来する名前であるとして、英雄の名に由来するかつての「チェンナイ」の名に改められた。 2004年にはインド洋大津波の被害に見舞われ、多数が死傷、海岸線も変化した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チェンナイ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Chennai 」があります。 スポンサード リンク
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