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マドレデウス (Madredeus) は、1985年にポルトガル・リスボンで結成され活動中のバンド。ファドの影響を色濃く受けており、ファドバンドと目されることもあるが、その音楽性はファドの範疇に留まらず、特に近年においてはポルトガルの伝統音楽、ボサノヴァ、クラシック、ポピュラーミュージックなどの要素をミックスさせた楽曲を多く発表している。 バンド名は、彼らが初期に活動拠点としていたリスボン東部の地区「Madre de Deus」(「神の母」の意)に由来する。なお、ポルトガル語の本来の発音では「マドレデウシュ」とするのが近いが、日本では「マドレデウス」の表記が一般的である。1993年・1994年・1996年・1998年・2001年・2006年と、これまでに6回来日公演を行なっており、日本でも人気が高い。 == 来歴 == ポルトガルで人気を誇っていたバンド「エロイス・ド・マール」() のベーシスト、ペドロ・アイレス・マガリャンエスと、「セティマ・レジアン」() のベーシスト、ロドリーゴ・レアンの2人が、それまでのポルトガル・ポップスとは違う「何か別のタイプ」の音楽を目指し、1985年にバンドを結成。アコースティック・ギター2本のための曲を書き、演奏するようになる。後にセティマ・レジアンのアコーディオン奏者ガブリエル・ゴメスが、さらに翌1986年にはマガリャンエスの友人で当時音大の学生だった、チェロ奏者フランシスコ・リベイロがこれに加わった。 一方で、肝心のヴォーカリストはなかなか現れず、数々のオーディションでもこれはという人材は見つからないままであった。しかしある日、レアンとゴメスが訪れたリスボンのナイトクラブで、ファドを歌っていたテレーザ・サルゲイロと出会う。サルゲイロの声を気に入った彼らは彼女にバンドに加わるよう求め、サルゲイロも了承した。これによってメンバーが揃い、本格的な活動を開始する。 ファーストアルバムとなる『マドレデウスの日々』(''Os dias da Madredeus'') は、当時彼らが練習で使っていた修道院の建物を使い、少数の関係者を前にしたライブ形式で録音された。この修道院のすぐ脇をリスボンの市電が走っており、数分おきに通る列車の音によって何度も中断されながらのレコーディングであった。このアルバム発売前に、セティマ・レジアンのライブでの前座という形で、初めてのコンサートをポルトとリスボンで実施し、好評をもって迎えられた。これが功を奏し、アルバム『マドレデウスの日々』は発表後すぐにポルトガル国内で話題となった。 ポルトガル国内で高まる人気に応えて各地でコンサートを開いていたバンドは、1990年に2作目となるアルバム『海と旋律』(''Existir'') を発表する。収録曲「海と旋律」("O Pastor") が、ホンダ・アコードのCM曲に使用され、日本での知名度が高まった。 1992年から1993年にかけては、ベルギー・フランス・スペイン・スイスなど国外でのコンサートも積極的に実施し、各国でのファンを増やしていった。1993年には日本でも初の公演を開催した。やがて、彼らの音楽に惚れ込んだドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースが、映画への出演をバンドに要請。この企画は1995年に公開された作品『リスボン物語』となって結実した。彼らがサウンドトラックも手がけたこの映画によって、マドレデウスは国際的にその名前を知られるようになった。 この頃、マガリャンエスが別プロジェクトのため一時バンドを離れ、その代理としてギタリストのジョゼ・ペイショートが加入。マガリャンエス復帰後もそのままバンドに留まっている。 1994年、レアンが本格的にソロ活動に転身するため脱退。カルロス・マリア・トリンダーデが代わりに加入した。続いて1997年にリベイロとゴメスが脱退、フェルナンド・ジューディセが代わりに加入する。 2006年12月の東京公演(Bunkamuraオーチャードホール)を最後に、バンドの再編成を行うとしてしばらく活動を休止していたが、2007年11月末、ヴォーカルとしてマドレデウスの顔であったサルゲイロが、ソロ活動に専念するという理由で脱退を発表した。ただし、今後もマドレデウスの活動に協力はしていくと言明。同時期にジョゼ・ペイショートとフェルナンド・ジューディセも脱退している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マドレデウス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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