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マドンナの歌手活動の歴史(マドンナのかしゅかつどうのれきし)は、アメリカ合衆国の歌手であるマドンナの歌手としての活動の歴史である。 == 1982年 - 1985年: ソロ・デビューからライク・ア・ヴァージン == 1982年、DJのマーク・ケイミンズの仲介で、ワーナーブラザーズ・レコード傘下のサイアー・レコードと契約。その契約内容は、5000ドルと一曲ごとの印税に出版料として1000ドルを支払うというもの。 そして10月、シングル「エヴリバディ」で歌手デビュー。ビルボードのダンス・クラブ・チャートで最高3位に登るヒットになる。 続く「フィジカル・アトラクション」もニューヨークのクラブでヒット。なお、メジャーデビュー前の楽曲は『Early Years』などのタイトルで非公式に発売されている。 1983年、デビュー・アルバム『バーニング・アップ』が発表される。全米で400万枚、全世界で800万枚という成功を収めた。アルバムからは計5曲がシングルカットされ、「ホリディ」、彼女のビルボード初のトップ10ヒットになった「ラッキー・スター」などが発表される。「ホリディ」は全英チャートでは最高2位に登る初のトップ10ヒットになり、その後ワールドツアーで歌われる定番曲になった。音楽性は白人としては珍しくディスコ・ソウルであり、その後もゴスペルやR&Bなどを取り入れたり、ブラックミュージックの要素を持っている。 1984年、第2作目のアルバム『ライク・ア・ヴァージン』が発売される。全世界で2000万枚、全11ヶ国でチャート第一位を獲得する。アルバムからの第一弾シングル「ライク・ア・ヴァージン」はメガヒットを記録する。マドンナにとって初のNo.1シングルで、全米チャート6週連続No.1を記録。全世界11ヶ国でNo.1を獲得し、一躍スーパースターの仲間入りを果たした。この頃から プロモーションビデオやステージにおけるセクシーで大胆なパフォーマンス、そして彼女の奇抜なファッションなどが社会的な反響を巻き起こした。「マリリン・モンローの再来」などと言われ、全世界のセックス・シンボルと呼ばれる(なおマドンナはモンローと反対側(右側)の口元にほくろがあることもモンローと比較される一因だったが、1990年代半ばにほくろを除去したとみられる)。全米でマドンナのユニークなファッションを真似たWannaBe's(ワナビーズ)という少女たちが急増し、社会現象になり、PTAは難色を示した。しかしマドンナの人気が衰えることはなかった。 1985年1月には、アルバムのプロモーションを兼ねて初来日。当時の人気音楽番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に出演し、「ライク・ア・ヴァージン」を披露。日本でも同曲がヒットチャート上位にランクインした。 同アルバムからの第二弾シングル「マテリアル・ガール」(物質至上主義・拝金主義的な女性という意味)はマドンナ自身の代名詞ともなったが、彼女自身の人間性を表したものではない。非道徳的・反社会的な存在と見られがちだったが、社会貢献活動(特に後のエイズへの啓蒙活動など)に関心を持ち始める。同年7月、「ライヴエイド」に参加。アメリカ・フィラデルフィアのJFKスタジアムからの出演で「ホリディ」、「イントゥ・ザ・グルーヴ」、この為に書かれた「ラヴ・メイクス・ザ・ワールド・ゴー・アラウンド」の3曲を歌唱した。この年、映画『ヴィジョン・クウェスト』にクラブの歌手として出演、そして主演映画『マドンナのスーザンをさがして』も公開された。これらの映画からは、バラードとして初の第一位シングルとなった、「クレイジー・フォー・ユー」と全英第一位となった「イントゥ・ザ・グルーヴ」がそれぞれ生まれている。 8月16日、マドンナ27歳の誕生日に俳優のショーン・ペンと結婚する。同年、雑誌『PLAYBOY』に1979~80年にNYで撮影されたといわれているモデル時代のヌード写真が掲載された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マドンナの歌手活動の歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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