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マニラの戦い(マニラのたたかい)は、第二次世界大戦末期の1945年2月3日から同年3月3日までフィリピンの首都のマニラで行われた日本軍と連合軍の市街戦のことを指す。日本軍は敗れ、三年間に及んだ日本のフィリピン支配は幕を閉じた。 == 背景 == === 無防備都市宣言問題 === 1944年(昭和19年)10月、アメリカ軍を中心とした連合軍はフィリピン奪還に着手し、日本軍はレイテ沖海戦で敗北した。同年12月までにレイテ島の戦いでも日本軍が敗れると、ルソン島への連合軍の上陸は時間の問題となった。連合軍は、マニラ港の補給拠点としての利用という軍事的目的と、首都及び捕虜収容所の解放という政治的目的から、マニラ奪還を重視していた。 日本陸軍はフィリピン守備隊として第14方面軍をルソン島に配置していたが、その司令官山下奉文大将は、司令部を首都マニラからルソン島北部のバギオに移動して山野での長期持久を図る方針で、マニラについては日本軍のフィリピン侵攻時のアメリカ軍の対応と同様に無防備都市宣言することを検討していた。マニラの放棄は市民の被害を避ける目的もあった。短期間に全市民を避難させることは不可能と判断されていた。この第14方面軍の方針に従い、マニラを含むルソン島南部地区担当の振武集団は、マニラ防衛隊(司令官:小林隆陸軍少将)を野口部隊など3個大隊だけを除いてマニラ市街から東方山地へ退去させた。 だが、大本営陸軍部はマニラの放棄には同意しなかった。現地でも第4航空軍(司令官:冨永恭次陸軍中将)は強硬なマニラ死守派であった。海軍もマニラ放棄に反対し、マニラ駐留の第31特別根拠地隊(司令官:岩淵三次海軍少将)を基幹にレイテ沖海戦やマニラ湾空襲での沈没艦(武蔵、最上、那智、熊野、木曾、曙、初春、若葉、沖波、早霜、隠戸など)の乗員などを集めた海軍陸戦隊「マニラ海軍防衛隊」(マ海防)を編成し、市街戦の態勢を作った。海軍が市街戦を主張した理由は、マニラの港湾施設の戦略的価値、物資の山岳地帯への搬出が未了、海軍将兵は野戦訓練に不安があったことなどであった。ただし、海軍のうちでも、現地の南西方面艦隊司令長官大川内伝七中将は第14方面軍の方針に同調しマニラ放棄に賛成であった。 結局、マニラの無防備都市化は実現しなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マニラの戦い (1945年)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Manila (1945) 」があります。 スポンサード リンク
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