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マヌエル2世パレオロゴス(ギリシャ語:, Manouel II Palaiologos 1350年6月27日 - 1425年7月21日)は東ローマ帝国末期、パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1391年 - 1425年)。皇帝ヨハネス5世の次男。母はヘレネー・カンタクゼネ、母方の祖父はヨハネス6世カンタクゼノス。中世ギリシャ語形ではマヌイル2世。 == 生涯 == 父帝の死んだ時はオスマン帝国バヤズィト1世のブルサの宮廷において捕虜であったが、脱出に成功。早速バヤズィト1世によって帝都コンスタンティノポリスが包囲され、ニコポリスの会戦において西欧のキリスト教国軍が敗戦。もはや帝都の安全もままならなくなった。 1399年、マヌエル2世は西欧から支援を取り付けようと、イタリア諸都市国家やフランス王国、神聖ローマ帝国、イングランド王国を歴訪する。マヌエルは各地で歓迎を受けるが、具体的な援助を得られず結果としては失敗に終わってしまった。その間にオスマン軍の圧迫は強まるばかりであり、1402年になると皇帝不在の首都ではオスマン軍に街を明け渡そうかという議論まで行われていた。 そこへ意外なところから援軍が現れた。ティムールが小アジアへ侵攻し、迎え撃ったバヤズィトは1402年7月のアンカラの戦いで敗れて捕虜になったのである。その報を滞在先のパリで受けたマヌエルは帝都に帰ると、オスマン帝国のスルタン位争奪戦に介入し、自らが推したメフメト1世をスルタンにすることに成功。このためメフメト1世との間には友好関係が保たれ、オスマン帝国からの圧迫に小休止がもたらされた。 しかし、1421年にメフメト1世が死去してムラト2世が後を継ぐと、宮廷内では長男ヨハネスを中心とした対オスマン強硬派が台頭してきた。このため、マヌエルはヨハネスを共同皇帝にして実権を譲り、事実上引退した。ヨハネスは東ローマ帝国内に拘留されていた、バヤズィト1世の息子と称するムスタファを対立スルタンとして擁立したが、翌1422年にムスタファはムラト2世によって打ち破られて処刑された。ムラト2世は余勢を駆ってコンスタンティノポリスまで攻め寄せ、帝都はオスマンの大軍に包囲された。このため、引退していたマヌエルが復帰した。オスマン側の人間とも知古が多かったマヌエルはなんとか講和条約締結にまでこぎつけた。しかし条約では東ローマ帝国はオスマン帝国スルタンに臣下の礼をとることを誓約させられた。もはや東ローマ帝国には、オスマン帝国の顔色を窺いながら細々と生きるしか道は残されていなかったのである。 1425年7月、マヌエルは修道士マタイオスとして74歳で死去した。勝気な息子ヨハネス8世の行く末を心配し、「今の帝国に必要なのは皇帝ではなく、管理人なのだ」と大臣のゲオルギオス・スフランツェスに語っているほどだったが、最期にはヨハネスに「今後は、お前の好きなようにしなさい」と遺している。マヌエルの死からわずか28年後の1453年、帝国は最期の時を迎えるのである。 優れた文人であり、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化最後の黄金時代を代表する人物の一人であった。帝国の維持に奔走しながら、忙しい政務の合間を縫って神学・修辞学・詩学の著作を執筆し、書簡集も遺している。 また、帝衣や皇冠をまとわず、喪服のような白衣を好んで身につけていたと言われ、廷臣からは悲しそうな瞳をした君主として記憶された。政治面で治績を残す機会には恵まれなかったが、したたかで粘り強い交渉者であり、「よりよい時代に生まれていたなら、さぞかし名君であったろう」と評されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マヌエル2世パレオロゴス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Manuel II Palaiologos 」があります。 スポンサード リンク
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