翻訳と辞書
Words near each other
・ マヌエル・ベレッリ
・ マヌエル・ベント
・ マヌエル・ペジェグリーニ
・ マヌエル・ペレグリーニ
・ マヌエル・ホセ・エストラーダ・カブレーラ
・ マヌエル・ポジアーリ
・ マヌエル・ポジャーリ
・ マヌエル・ポッジアーリ
・ マヌエル・ポッジャーリ
・ マヌエル・ポンセ
マヌエル・マティアス
・ マヌエル・マリン
・ マヌエル・マリン・ゴンザレス
・ マヌエル・マルチネス
・ マヌエル・マルティネス
・ マヌエル・マルティネス・グティエレス
・ マヌエル・マルランダ
・ マヌエル・ミンギンフェル
・ マヌエル・メディナ
・ マヌエル・メフト・ゴンサレス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

マヌエル・マティアス : ミニ英和和英辞書
マヌエル・マティアス
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


マヌエル・マティアス : ウィキペディア日本語版
マヌエル・マティアス
マヌエル・マティアスManuel Fernando Gonilho Matias1962年3月30日-)は、ポルトガルマラソン選手アトランタオリンピック同国男子マラソン代表。勝負強さに定評がある。170cm、61kg。
== 来歴 ==
スペイン国境に近いベージャに生まれ、父と大工をしていた。元はトラック競技の長距離走選手だったが、1988年にマラソンに転向。ポルトガルマラソンクラブに所属し、リスボンに自宅を構えた。転向後すぐの1988年5月パリマラソンで優勝し、カルロス・ロペスの再来と言われた。1989年は、ロンドンマラソンで自身初の2時間10分を切る2時間9分43秒で4位となる〔朝日新聞東京本社版1989年12月4日付朝刊3面〕。同年12月の福岡国際マラソンでは、エチオピアのアベベ・メコネン、ソ連のラビル・カシャポフとの三つ巴の争いとなった。36kmの給水でマティアスとカシャポフが抜け出し、ゴール手前1,100mでカシャポフが右腹をおさえながらもスパートし、マティアスに20m差を付けて競技場に入った。そして残り100mでマティアスが猛然とスパート、ゴール手前20mで並びカシャポフをかわして優勝した。カシャポフはうっかり気を抜いたと述べ、マティアスは残り2kmで勝てる気があったと述べた〔朝日新聞東京本社版1989年12月4日付朝刊25面〕。1990年はパリマラソンで3位。福岡国際マラソンでは、33kmすぎに左足付け根を痛め6位〔朝日新聞東京本社版1990年12月3日付朝刊25面〕、1991年の福岡国際マラソンは13位だった。しかし1994年3月のソウル国際マラソン金完基を1秒差で振り切って優勝、復活を果たした。同年12月の福岡国際マラソンでは、ジュマ・イカンガーの一番弟子と言われたタンザニアのボアイ・アコナイに5秒差2位。タイムは2時間9分50秒で、「最後は足が動かなかった。だが、2時間10分を切ったことは良い〔朝日新聞東京本社版1994年12月5日付朝刊20面〕」と述べた。その後は、1996年のアトランタオリンピックのポルトガル代表となったが、2時間20分58秒の46位、1999年東京国際マラソンでも2時間18分19秒の14位と精彩を欠いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マヌエル・マティアス」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.