翻訳と辞書 |
マヌエル・マティアス
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
マヌエル・マティアス マヌエル・マティアス(Manuel Fernando Gonilho Matias、1962年3月30日-)は、ポルトガルのマラソン選手、アトランタオリンピック同国男子マラソン代表。勝負強さに定評がある。170cm、61kg。 == 来歴 == スペイン国境に近いベージャに生まれ、父と大工をしていた。元はトラック競技の長距離走選手だったが、1988年にマラソンに転向。ポルトガルマラソンクラブに所属し、リスボンに自宅を構えた。転向後すぐの1988年5月パリマラソンで優勝し、カルロス・ロペスの再来と言われた。1989年は、ロンドンマラソンで自身初の2時間10分を切る2時間9分43秒で4位となる〔朝日新聞東京本社版1989年12月4日付朝刊3面〕。同年12月の福岡国際マラソンでは、エチオピアのアベベ・メコネン、ソ連のラビル・カシャポフとの三つ巴の争いとなった。36kmの給水でマティアスとカシャポフが抜け出し、ゴール手前1,100mでカシャポフが右腹をおさえながらもスパートし、マティアスに20m差を付けて競技場に入った。そして残り100mでマティアスが猛然とスパート、ゴール手前20mで並びカシャポフをかわして優勝した。カシャポフはうっかり気を抜いたと述べ、マティアスは残り2kmで勝てる気があったと述べた〔朝日新聞東京本社版1989年12月4日付朝刊25面〕。1990年はパリマラソンで3位。福岡国際マラソンでは、33kmすぎに左足付け根を痛め6位〔朝日新聞東京本社版1990年12月3日付朝刊25面〕、1991年の福岡国際マラソンは13位だった。しかし1994年3月のソウル国際マラソンで金完基を1秒差で振り切って優勝、復活を果たした。同年12月の福岡国際マラソンでは、ジュマ・イカンガーの一番弟子と言われたタンザニアのボアイ・アコナイに5秒差2位。タイムは2時間9分50秒で、「最後は足が動かなかった。だが、2時間10分を切ったことは良い〔朝日新聞東京本社版1994年12月5日付朝刊20面〕」と述べた。その後は、1996年のアトランタオリンピックのポルトガル代表となったが、2時間20分58秒の46位、1999年の東京国際マラソンでも2時間18分19秒の14位と精彩を欠いた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マヌエル・マティアス」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|