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ボブ・ループ(Bob Roop、本名:Robert Michael Roop、1947年7月22日〔 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。バージニア州ブラックスバーグ出身。生年は1943年ともされる。 1968年のメキシコシティオリンピックに全米代表で選出されたレスリングの強豪であり、プロレス転向後はシュートにもラフにも強いストロングファイターとして活躍した。 == 来歴 == ジュニア・ハイスクール時代からレスリングを始め、南イリノイ大学カーボンデール校ではAAUのライトヘビー級チャンピオンシップを獲得。1967年にNCAAのチャンピオンになり、1968年にはメキシコシティオリンピックに出場、グレコローマン・スタイルのヘビー級部門で8位の成績を残した〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P41(2002年、日本スポーツ出版社)〕。 1969年、NWA圏のフロリダ地区(後にエディ・グラハムが主宰するチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)にてプロデビュー。"オール・アメリカン" をニックネームにアスリート系のベビーフェイスとして活躍し、1971年12月23日にオレイ・アンダーソンを破ってTV王座を獲得。以降もジョニー・バレンタイン、ターザン・タイラー、キラー・カール・コックス、バディ・コルト、プロフェッサー・タナカ、クリス・マルコフ、ボビー・ダンカン、ディック・マードックなどと抗争を展開した。1974年4月29日には、テキサスの東部地区(フリッツ・フォン・エリック主宰のNWAビッグタイム・レスリング)にてフランク・グーディッシュのデビュー戦の相手を務めたとされている〔『Gスピリッツ Vol.18』P15(2010年、辰巳出版、ISBN 4777808661)〕。 やがてラフファイトの強さを活かしたヒールに転向し、1975年2月25日にビル・ワットからフロリダ・ヘビー級王座を奪取。以降、1970年代末までフロリダを主戦場に〔、ダスティ・ローデス、ジャック・ブリスコ、ヒロ・マツダ、ジョー・ルダック、ボブ・アームストロング、ロッキー・ジョンソン、サンダーボルト・パターソン、マイク・ジョージ、スティーブ・カーン、ボブ・バックランドらと激闘を繰り広げた。また、1977年には西海岸のサンフランシスコ地区に遠征し、3月30日にアレックス・スミルノフと組んでパット・パターソン&ペッパー・ゴメスからサンフランシスコ版のNWA世界タッグ王座を奪取。同地区のフラッグシップ・タイトルであるUSヘビー級王座も、9月17日にディーン・ホーを下し獲得している。 1979年、ランディ・サベージの父親アンジェロ・ポッフォが立ち上げたケンタッキー州レキシントンの新興インディー団体ICW(インターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング)に、フロリダでのタッグ・パートナーだったボブ・オートン・ジュニアと共に参画。ICWではカラー・コメンテーターも務め、1981年まで在籍していた。しかし、NWAに加盟していない独立団体の運営に関わったため、その後しばらくはNWAの主要テリトリーに戻ることができず、ビル・ワットが主宰していたMSWA(ミッドサウス・レスリング・アソシエーション)に転出する。MSWAでは当初はベビーフェイスとしてアーニー・ラッドやスーパー・デストロイヤー、ワイルド・サモアンズ、ザ・グレート・カブキなどと対戦したが、ほどなくしてヒールターンし、テッド・デビアスやジャンクヤード・ドッグを相手にフラッグシップ・タイトルの北米ヘビー級王座を争った。 以後はNWAに戻り、ジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)でのトミー・リッチやロニー・ガービンとの抗争を経て、1985年にケビン・サリバン率いるヒール軍団 "アーミー・オブ・ダークネス" の一員として古巣のフロリダ地区に復帰。髪を半分剃り上げ顔面にペイントを施し、マハ・シン(''Maha Singh'')なる怪奇派レスラーに変身した。1986年2月14日にオーランドで開催された "NWA Battle Of The Belts II" では、サリバン&パープル・ヘイズとの怪奇派トリオでロード・ウォリアーズ&ブラックジャック・マリガンと対戦、この試合は日本でもテレビ東京の『世界のプロレス』で放送された。フロリダではヒロ・マツダと共に、デビュー前のレックス・ルガーのコーチも務めている。 1987年に首を負傷して引退後は、ミシガン州ランシングで学校職員に転じている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボブ・ループ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Bob Roop 」があります。 スポンサード リンク
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