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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
麻原 彰晃(あさはら しょうこう、本名:松本 智津夫(まつもと ちづお)、1955年(昭和30年)3月2日 - )は、日本の宗教家、宗教団体オウム真理教(現Aleph)の元代表、教祖であり、日本で唯一の「最終解脱者」を自称していた。一連のオウム事件を起こし、現在は確定死刑囚。 1996年(平成8年)6月19日以降は、教団内部での地位は開祖。同団体は宗教団体「アレフ」に一旦改組され「アーレフ」に改称するも、さらに「Aleph」に改称。Alephにおいての公式呼称は「旧団体代表」とされた。 著書では「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」名義を用いていた。宗教団体オウム真理教の信者からは尊師、もしくは本来ヒンドゥー教の導師を指すグルと呼ばれ、崇拝の対象となっていた。宗教団体Alephでは、尊師・グルの呼称の使用及び、写真・イラスト・その他その肖像を表したものを団体施設の祭壇及び個人所有の祭壇に備え付けることを禁じたが、2011年に入り、麻原の「生誕祭」や肖像の掲示を公然と行うようになっている。 教団は日本支配を画策しており、国家の憲法に相当する基本律の草案では神聖法皇と呼称されていた。 == 経歴 == === 成年前 === 1955年3月2日午前3時34分、麻原彰晃こと松本智津夫は、熊本県八代市高植本町(旧八代郡金剛村〔金剛村は1954年4月1日に八代市に編入され、智津夫の出生時には消滅していた。〕)の畳職人の家庭の4男(6男3女の9人兄弟の第7子)として生まれた〔「「上に立つ」…盲学校に原点」『読売新聞』 2004年2月4日付〕〔。先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目は視力1.0程度だった。12歳年上の長兄は全盲、5男も弱視だった(藤原新也は、「麻原兄弟の視覚障害が水俣病の影響であり、それゆえに同じく視覚障害を起こすサリンを使ったのでははないか」という仮説を立て、全盲の長兄に事件後インタビューしている〔 日刊SPA!、2013.04.07〕。長兄の証言によると、彼も智津夫の視覚障害に関し同様の疑いを持ち、「水俣病患者として役所に申請」したことがあるが、却下されたという〔藤原新也『黄泉の犬』文藝春秋、2006年、pp.71-80〕)。父親は敗戦で朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた。両親は働きづくめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った〔高山文彦『麻原彰晃の誕生』 (文春新書) 新書 – 2006/2/20〕〔NCC宗教研究所、富坂キリスト教センター『オウムからの問い、オウムへの問い』新教出版社、2004年2月27日。〕。 『週刊現代』1995年5月27日号「麻原オウム真理教と統一協会を結ぶ点と線」p.44で「麻原の父親は朝鮮から日本へ渡ってきた人だったんです」と栗本慎一郎が主張した〔当該記事前半 当該記事後半 〕。一方『週刊文春』2000年新年合併号によると、「松本の祖父は熊本県出身の警察官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」という。また、高山文彦は『麻原彰晃の誕生』で、「松本家は朝鮮半島の出自ではなく、朝鮮から引き揚げてきた日本人」との親族の言葉を紹介しており、松本の父は現在の大韓民国全羅北道益山郡春浦面の生まれであるとしている。『オウム真理教大辞典』(東京キララ社、2003年)の「麻原彰晃」の項によれば、本人による「在日」「部落」発言があったという噂のため「在日説、部落出身説があったが、これらはデマである」としている。 1961年(昭和36年)4月に、一旦は八代市立金剛小学校に入学するが、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住〔熊本県立盲学校の沿革 2013年7月13日閲覧〕。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ、転校の際には泣いて嫌がったという。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った。 盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配していた。全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり窃盗を命じたり、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていた。寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」と言った。生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」とうそぶくこともあった。金への執着も強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた。ただし、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述懐している〔p.138森達也『A3』集英社インターナショナル、2010年11月〕。 部活動は柔道に打ち込む一方で、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している〔「教祖 失意重ね、一線越す」『朝日新聞』2004年2月26日朝刊〕。 その後、成績は中程度であったにもかかわらず、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」〔p.137森達也『A3』集英社インターナショナル、2010年11月〕と熊本大学医学部を志望するようになり、高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗。高等部専攻科に進学する。1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得(一連のオウム事件の裁判が進むと講道館より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった。1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「麻原彰晃」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shoko Asahara 」があります。 スポンサード リンク
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