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マフディー戦争(マフディーせんそう、英語:''Mahdist War'')は、19世紀末に行われた植民地戦争である。スーダンのマフディー教徒とエジプト、後にイギリス軍が戦った。これはマフディーの反乱とも呼ばれ、イギリスでは自国が戦った局面を指してスーダン戦役とも呼ばれる。 == マフディーの反乱 == 1819年のムハンマド・アリーの侵略以降、スーダンはエジプトによって支配されていた(「トルコ人の支配」という意味でトゥルキヤと呼ぶ)。この植民地体制はエジプトによる重税と奴隷交易の禁止のためにスーダンの人々に憎まれていた。1870年代、モスリムのシャイフ(師匠)〔「アフリカの歴史―侵略と抵抗の軌跡」(岡倉登志、明石書店、2001年)p71〕のは信仰の革新と国土の解放を伝道して、多くの信者を従えていた。やがて彼らはエジプトに対して反乱を起こす。 1881年6月19日、ムハンマド・アフマドは自らを「」(イスラム世界での「約束された救世主」)であると宣言した。当時のスーダン総督ムハンマド・ラウーフ・パシャは彼を逮捕するために二個部隊を機関銃1丁とともに派遣した。部隊の隊長たちには、もしもムハンマド・アフマドを捕えれば昇進させるとの約束がなされていた。二つの部隊は蒸気船に乗ってナイル川を遡上してアバ島に到着、おのおの異なる方向からマフディーの村へ向かった。8月17日夜、二つの部隊は同時に到着するが、闇夜の中で誤って同士討ちを始めてしまう。貧弱な武装のマフディーの信者たちが攻撃をかけて代わる代わるこれを撃破した。 その後、マフディーは首都があるハルツームから遠く離れたコルドファンへの戦略的後退を始める。これは預言者ムハンマドの故事ヒジュラ(「避難」)を模倣した〔「アフリカの歴史―侵略と抵抗の軌跡」(岡倉登志、明石書店、2001年)p73〕勝利の行進として言い表され、マフディーが唱える「トルコの圧政者」に対するジハード(聖戦)への多くのアラブ部族からの支持をかき立てた。ファショダから派遣されたエジプトの遠征部隊は12月9日の夜に待ち伏せを受けて虐殺されている〔''Ibid''〕。 反乱の拡大を憂慮したエジプトのスーダン行政府は、ユセフ・パシャの指揮下に4000人の兵士を集めた。エジプト軍はマフディー軍の集結地に向かった。マフディー軍はみすぼらしい服装で、半ば飢え、棒と石しか持っていなかった。しかし、自信過剰になったエジプト軍はマフディー軍の前で歩哨も立てずに夜営する愚行を犯してしまう。1882年6月7日、マフディー軍は攻撃をかけ、エジプト軍を殲滅した。反乱軍は大量の武器と弾薬、軍服その他の補給品を鹵獲した〔''Ibid'', p18〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マフディー戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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