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マヤノトップガンは日本の元競走馬、種牡馬。主な勝ち鞍は菊花賞、有馬記念、宝塚記念、天皇賞(春)。4つのGI競走をそれぞれ違う戦法で勝つという変幻自在の脚質が特徴。1995年に年度代表馬に選ばれている。 ※年齢は旧表記 == 戦績 == === 4歳(1995年) === マヤノトップガンのデビュー戦は1995年1月8日のダートの新馬戦。単勝1番人気に支持されたが、後の桜花賞馬ワンダーパヒュームに敗れて5着に終わった。その後、ダート戦を2戦するも勝てず、4戦目の3月25日の未勝利戦でようやく初勝利を挙げた。 初勝利後も脚部にソエが見られたため、陣営の判断によりダート1200メートルのレースを使い続けたがなかなか勝てず、7戦目となる5月28日(同年の日本ダービー当日)の500万下のレースで2勝目を挙げた。その後、初の芝レースとなる900万下(現・1000万下)のロイヤル香港ジョッキークラブトロフィーで3着に入り、芝コースへの適性の不安を解消したマヤノトップガンは次走のやまゆりステークス(900万下)で3勝目を挙げ、芝転向を決定づけるとともに本格化の兆しが見え始めた。秋は4歳クラシックの最終戦である菊花賞を目指し、菊花賞トライアル初戦・神戸新聞杯に出走、タニノクリエイトの2着に入り、出走権を獲得した。続くもう1つの菊花賞トライアル・京都新聞杯にも出走し、ナリタキングオーの2着と好走した。 この年の菊花賞は、ダービー馬のタヤスツヨシが秋になって不調に陥り、皐月賞馬のジェニュインは距離適性から天皇賞(秋)に回ったことで、主役不在の混戦となっていた。この時の1番人気は牝馬ながら菊花賞に挑戦してきたオークス馬ダンスパートナー、2番人気はトライアルの京都新聞杯を制したナリタキングオーであった。マヤノトップガンはトライアルでは勝ちきれなかったものの3番人気に推されていた。レースではスタート直後に4番手につけ、道中はその位置をキープし続けた。そして、第4コーナーで一気に先頭に立つと、直線では後続を寄せ付けず、当時のレースレコードで優勝した。 菊花賞後、ここまで数多くのレースを使ってきたことから、陣営は年末の大一番・有馬記念へはなかなか出走の意思を明確にしなかったが、状態が悪くなかったことから出走を決断。出走馬に実績のある馬が多く、GIを1勝しただけで信頼が厚くないこと、状態が絶好調ではなかったことから、ヒシアマゾンや三冠馬ナリタブライアンより人気がなく、6番人気にとどまった。しかし、レースではスタート直後に先頭に立つとスローペースに落とし、ゴールまで他馬の追随を許さず、そのまま逃げ切り勝ちを収めた。 騎乗していた田原成貴は菊花賞と有馬記念でゴールをしたときに「十字を切って投げキッス」というパフォーマンスを演じたが、これは同年に凱旋門賞をラムタラで制したランフランコ・デットーリの真似である。後輩の騎手たちに「勝ったらやってくださいよ」と言われていたためにやった、と田原は後年、自らのエッセイで記している。マヤノトップガンはGIを2勝したことが決め手となり、1995年度の年度代表馬、JRA賞最優秀4歳牡馬(部門名は当時)に選ばれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マヤノトップガン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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