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マラーター王国 : ミニ英和和英辞書
マラーター王国[まらーたーおうこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王国 : [おうこく]
 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

マラーター王国 : ウィキペディア日本語版
マラーター王国[まらーたーおうこく]

マラーター王国(マラーターおうこく、マラーティー語:मराठा साम्राज्य(Marāṭhā Sāmrājya, マラーター・サームラージヤ), 英語:Maratha Empire)は、インドデカン地方に存在したヒンドゥー王朝1674年 - 1849年)。首都はラーイガドシェンジサーターラー
マラーター同盟の中心となった国家でもある。なお、しばしばマラーター王国はマラーター同盟と同一視されることもあるが、ここでは王国のみに関して説明している。
中世のデカン地方に勃興した新興カーストマラーターは、17世紀後半に卓越した指導者シヴァージーに率いられて諸勢力と戦い、1674年にマラーター王(チャトラパティ)を宣し、マラーター王国を創始した。
その後、1680年にシヴァージーが死亡すると、サンバージーが王位を継承したが、ムガル帝国のアウラングゼーブの軍勢に圧されて不利となったが、王国はその没年までに勢力を回復した。
1708年、マラーター同盟が結成されたのち、王国の実権を握った三人の宰相(ペーシュワーバーラージー・ヴィシュヴァナートバージー・ラーオバーラージー・バージー・ラーオのもと王国を中心に勢力を広げた。1761年第三次パーニーパットの戦いで同盟軍がアフガン軍に敗北すると、王国宰相を中心とした同盟の体制は崩れた。
マラーター王国はその後、マーダヴ・ラーオの下でニザーム王国マイソール王国をとの争いにも負けずに勢力を回復した。だが、宰相位をめぐる争いから、宰相の権力は家臣へと移った。
1818年、イギリスとの3次にわたるマラーター戦争の結果、マラーター王国はサーターラー藩王国として存続を許されたものの、1848年の藩王シャハージーの死を以て廃絶された。
==歴史==

===マラーター勢力の台頭とマラーター王国の成立===

マラーターは中世に勃興した新興カーストであり、バフマニー朝やその後に分裂したデカン・スルターン朝のもとで傭兵として活躍した。また、マラーターの豪族は郷主つまり行政官として各王朝に認められ、その領土は封土として与えられた。
17世紀初頭、ムガル帝国がデカン・スルターン朝の一つアフマドナガル王国の領土に侵入するさなか、1627年にマラーター王国の祖たるシヴァージープネーの郷主シャハージーの息子として誕生した。
1633年6月にはムガル帝国は王国の首都ダウラターバードを落としたが、シャハージーは幼王ムルタザー・ニザーム・シャー3世を擁して抵抗を続けた。しかし、その抵抗もむなしく、1636年2月にシャハージーはムガル帝国の軍に敗れ、ムルタザー・ニザーム・シャー3世を引き渡した。
その後、シャハージーはアフマドナガル王国を支援していたビジャープル王国へと亡命し、プネーとその近郊マーヴァルに領土を与えられ、首都ビジャープルの宮廷に出仕することとなった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.202〕。そのため、シヴァージーは幼少期、母のジジャー・バーイーに養育されて育つこととなった。
成長したシヴァージーは多くの仲間を集め、1645年以降から王国に公然と反抗するようになり、1659年までにコンカン地方一帯をほぼ制圧した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.204-206〕。同年、ビジャープル王国は大軍を派兵したが、11月に討伐軍の主将アフザル・ハーンはじめとして多くの死者を出して敗退した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.207〕。
1657年以降、シヴァージーはムガル帝国に目をつけ、皇位継承戦争に乗じてその領土を襲撃した。1658年アウラングゼーブが帝位についたのちも襲撃をかけ続け、帝国が派遣したシャーイスタ・ハーンを悉く打ち破り、帝国の重要都市スーラトを略奪した(スーラトの戦い)〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.240〕。
1664年、事態を重く見たアウラングゼーブは、帝国の武将でありアンベール王国の君主ジャイ・シングをシヴァージーの討伐に向かわせた。ジャイ・シングは次々とマラーター側の城塞を奪い、1665年6月にシヴァージーは帝国有利の条件で講和を結んだ(プランダル条約)〔。
1666年5月、シヴァージーは息子サンバージーとともにアウラングゼーブにアーグラで面会したが、折り合いがつかず、幽閉されてしまった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.208〕。だが、彼らは城兵の油断した隙をついて脱出、本拠ラーイガドへと帰還した〔。
その後、両国の関係は概ね平和であったが、アウラングゼーブがヒンドゥー教の弾圧を強めたため、シヴァージーはプランダル条約を事実上破棄した。1670年1月以降、シヴァージーは帝国領へと襲撃を掛け、10月にスーラトを再び略奪し、その領土を徐々に回復していった〔〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.242〕。
そして、1674年6月にシヴァージーはラーイガド城において即位式を行い、大勢のバラモンを集め、マラーター王国の樹立を宣言した〔。デカン地方は14世紀初頭にデリー・スルターン朝の支配におかれたのち、バフマニー朝やデカン・スルターン朝の支配におかれており、ヒンドゥー王朝が樹立されたのはじつに3世紀ぶりだった。
その後、1678年にシヴァージーは弟のヴィヤンコージーが建国したタンジャーヴール・マラーター王国へと軍を進め、ヴィヤンコージーと争って、その領土を実質的に支配した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.209〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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