翻訳と辞書
Words near each other
・ マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)
・ マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)
・ マリア・アントニア
・ マリア・アントニア・ディ・ブラガンツァ
・ マリア・アントニア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
・ マリア・アントニア・デル・ポルトゥガッロ
・ マリア・アントニア・デ・ナポレス
・ マリア・アントニア・デ・ナポレス・イ・シシリア
・ マリア・アントニア・デ・ボルボーン=ドス・シキリアス
・ マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ
マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ
・ マリア・アントニエッタ・デ・ナポレス
・ マリア・アントニエッタ・デ・ナポレス・イ・シシリア
・ マリア・アントーニア
・ マリア・アントーニア・フォン・バイエルン
・ マリア・アントーニエ・フォン・コハーリ
・ マリア・アンナ
・ マリア・アンナ・アロイジア
・ マリア・アンナ・アロイジア・ケラー
・ マリア・アンナ・カロリーナ・ディ・サッソニア


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ : ミニ英和和英辞書
マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ[かー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car

マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ : ウィキペディア日本語版
マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ[かー]

マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(Maria Antonia Erzherzogin von Österreich-Toskana, 1899年7月13日 アグラム - 1977年10月22日 ポルト・アレグレ)は、オーストリア帝室の分枝ハプスブルク=トスカーナ家出身の大公女(Erzherzogin)。トスカーナ大公レオポルド2世の曾孫。
== 生涯 ==
レオポルト・ザルヴァトール大公と、その妻でスペインカルリスタ王位請求者であるマドリード公カルロス・マリアの娘ブランカの間の第6子、四女として生まれた。全名はマリア・アントニア・ローベルタ・ブランカ・レオポルディーナ・カローレ・ヨーゼファ・ラファエラ・ミヒャエラ・イグナティア・アウレリア(''Maria Antonia Roberta Blanka Leopoldina Karole Josepha Raphaela Michaela Ignatia Aurelia'')である。家族からはミミ(''Mimi'')の愛称で呼ばれた。両親はウィーンにとの2つの城館を所有し、後者の城だけで80人以上の使用人を抱えるなど〔Harding, ''Lost Waltz'', p. 28〕、裕福な資産家だった。9人の兄弟姉妹がいたが、すぐ下の妹アスンタと一緒に育てられた。1918/1919年の二重帝国と君主制の崩壊に伴い、大公一家は皇族の身分と全財産を失った〔McIntosh, ''The Unknown Habsburgs'', p. 48〕。(2人の年長の兄を除く)大公一家全員はオーストリア共和国市民に登録するのを拒み、1919年1月にスペインのバルセロナに亡命〔McIntosh, ''The Archduchess From Texas'', p. 36〕、以前に較べると貧しい生活を送った。
年の離れた3人の姉ドローレスマリア・インマクラータマルガレータが両親に従順だったのに対し、マリア・アントニアとアスンタの年若い2人の姉妹は反抗的で、頻繁に母ブランカ大公妃と衝突した。2人姉妹は徐々に宗教生活に傾倒していった〔Harding, ''Lost Waltz'', p. 115〕。両親は共に信心深いカトリック信徒ではあったものの、下の娘たちの信仰生活への情熱に不安を感じていた。母大公妃はマリア・アントニアの修道院に入りたいという願望を理解せず、彼女の宗教的な情熱が妹アスンタに影響を与えることを嫌った。両親はマリア・アントニアの決心を翻すきっかけになればと、マヨルカ島への旅行に娘を伴った。これは父大公の叔父でマヨルカ島に隠棲した大公が残した資産の相続請求のための旅行だったが、両親は叔父の遺産を得ることは出来なかった。しかしマリア・アントニアはこの島で出会った男性と恋に落ち、修道女になる決心を捨ててしまった。相手は貧窮した下級貴族の息子ラモン・オルランディス・イ・ビジャロンガ(1896年 - 1936年)で、彼の父親は貴族の資産税を支払うことが出来ず、爵位を剥奪されていた。2人の婚礼は1924年6月16日にバルセロナで挙げられた。夫妻はマヨルカ島で暮らし、1男4女の5人の子女をもうけた。長男フアン・オルランディス・イ・アブスブルゴ(1928年 - 1977年)は、1963年にに叙せられている。
1936年にラモンと死別すると、スペイン内戦を避けて南米に移住した。1942年、モンテビデオでアルゼンチン人ルイス・ペレス・スクレ(1899年 - 1957年)と再婚した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.