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マリオ・アンチッチ(Mario Ančić, 1984年3月30日 - )は、クロアチア・スプリト出身の男子プロテニス選手。クロアチアの先輩選手ゴラン・イワニセビッチと同じスプリット出身で、顔立ちも試合中の挙動もよく似ていることから、「イワニセビッチ2世」と呼ばれることが多い。人気テレビゲームの『スーパーマリオブラザーズ』にちなんだ“スーパーマリオ”というニックネームもある。 シングルス自己最高ランキングは7位(2006年7月)。2005年度の男子テニス国別対抗戦・デビスカップで、同僚のイワン・リュビチッチとともにクロアチア・チームを初優勝に導いた。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス5勝を挙げた。身長195cm、体重81kgの長身選手。妹のサンヤ・アンチッチもプロテニス選手になった。 == 選手経歴 == 7歳からテニスを始め、10歳の時からゴラン・イワニセビッチと一緒に練習するようになった。ジュニア時代には、2000年のウィンブルドン男子ジュニア部門で準優勝がある。2001年に17歳でプロ入り。2002年のウィンブルドン1回戦で、アンチッチは第7シードのロジャー・フェデラー(スイス)を 6-3, 7-6(2), 6-3 のストレートで圧倒した。続く2回戦で敗れたが、この勝利で「イワニセビッチ2世」は一躍有名になり、現地イギリスの新聞から「スーパーマリオ」のニックネームもつけられた。2003年は全豪オープンでフアン・カルロス・フェレーロ(スペイン)との4回戦まで進み、全仏オープンの2回戦では第1シードのアンドレ・アガシ(アメリカ)に 7-5, 6-1, 4-6, 2-6, 5-7 のスコアで逆転負けを喫した。2004年はウィンブルドンでさらなる成長ぶりを発揮し、アンディ・ロディック(アメリカ)との準決勝まで進出したが、4-6, 6-4, 5-7, 5-7 で敗れている。同年のアテネ五輪にもクロアチア代表として出場し、イワン・リュビチッチとペアを組んで男子ダブルスの銅メダルを獲得した。この年はATPツアーで4度の準優勝があり、あと1歩でツアー初優勝を逃していた。 2005年6月、マリオ・アンチッチはウィンブルドン前哨戦の1つであるオランダ・スヘルトーヘンボス大会決勝でミカエル・ロドラ(フランス)と対戦、7-5,6-4 のストレートで下しついにツアー初優勝を飾った。同年10月に日本の「ジャパン・オープン」にも出場、ここでも決勝に進出したが、対戦相手のウェスリー・ムーディ(南アフリカ)に 6-1, 6-7, 4-6 の逆転で敗れ、年間2勝目はならなかった。2005年12月2日から4日、デビスカップのワールド・グループ決勝戦でクロアチアとスロバキアが対戦した。会場はスロバキアの首都ブラチスラヴァで行われたが、アンチッチとイワン・リュビチッチのコンビが活躍し、「3勝2敗」でクロアチアにデ杯初優勝をもたらした。 2006年は全仏オープンで初めて準々決勝に進出したが、ロジャー・フェデラーに 4-6, 3-6, 4-6 のストレートで敗れた。オランダ・スヘルトーヘンボス大会で大会2連覇を達成した後、ウィンブルドン準々決勝でもフェデラーに連敗する。ウィンブルドン終了後、アンチッチは初めての世界ランキングトップ10入りを果たし、自己最高の7位に食い込んだ。しかし、2007年初頭から伝染性単核症に悩まされ、2月から半年間の戦線離脱を経験した。 アンチッチはウィンブルドン1回戦でフェデラーを破った2002年、地元にあるスプリト大学の法学部に入学し、2008年4月に大学を卒業した。 大学卒業から2か月後、彼はスヘルトーヘンボス大会のダブルスでユルゲン・メルツァー(オーストリア)と組んで優勝し、ダブルス通算5勝目を挙げた。ウィンブルドン選手権でも2年ぶりの準々決勝に勝ち進み、ここでもフェデラーに敗れた。 2009年には単核症の再発を受け、同年5月のオーストリア・キッツビュール大会に出場したのを最後に療養の為またもツアー離脱を余儀なくされた。 2011年2月21日、アンチッチは現役引退を発表した。引退後は弁護士を目指している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリオ・アンチッチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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