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マリオ・マンジュキッチ(Mario Mandžukić, 1986年5月21日 - )は、クロアチア東部スラヴォンスキ・ブロド出身のサッカー選手。セリエA・ユヴェントスFC所属。クロアチア代表。ポジションはフォワード。 == 来歴 == === クラブ === 幼少時にドイツで過ごしていた時期があり、シュトゥットガルト近郊のディツィンゲンという町のクラブでサッカーを始めた。その後出身地に戻り、1997年から2003年までNKマルソニアのユース組織に所属した。2005年夏にNKザグレブに移籍。元クロアチア代表監督であるミロスラヴ・ブラジェヴィッチの指導の下で才能を伸ばし、他の多くのクラブから関心を持たれるようになった。 2007年夏、クロアチア内の強豪NKディナモ・ザグレブに、エドゥアルド・ダ・シルヴァの代役として130万ユーロの移籍金で移籍〔Dinamo act quickly to replace Eduardo , uefa.com, 2007年7月10日〕。移籍初年度は29試合出場で12ゴール、11アシストを記録した反面、8枚のイエローカードを受けるという不名誉な記録も残してしまった。2008-09シーズンは、28試合に出場し16ゴールをあげ、クロアチアリーグ得点王に輝いた。シーズン終了後、ドイツのヴェルダー・ブレーメンから1200万ユーロの移籍金で獲得のオファーがあったが、ディナモは1500万ユーロを要求し破談に終わった。 2009年9月17日のUEFAヨーロッパリーグ、RSCアンデルレヒト戦(ホームで0対2の敗戦)後、試合中の低調なパフォーマンスと、以前に行われたUEFAチャンピオンズリーグ予選、レッドブル・ザルツブルク戦でのレッドカードの責任を問われ、10万ユーロの罰金という高額な懲罰が課された。これはクラブ史上初の経済的懲罰だった。 2010年7月16日、ドイツのVfLヴォルフスブルクへ移籍。移籍金は700万ユーロと報道されている〔クロアチア代表マンズキッチ、ヴォルフスブルク移籍 Livedoor 2010年7月17日付記事〕〔Career statistics Nogometni Magazin 2010年7月17日閲覧〕。 12得点を挙げた2011-12シーズンと、UEFA EURO 2012でグループリーグで敗退したものの3試合で3得点した活躍が評価されて、2012年6月27日に1300万ユーロでバイエルン・ミュンヘンに移籍した。 2012-13シーズンはマリオ・ゴメスの控えと思われたものの、ゴメスの怪我もありスタメンに定着しユップ・ハインケスの下でのシーズン三冠に貢献した。 2013-14シーズンも前線の軸として活躍しリーグ戦とDFBポカールの二冠に貢献した。しかし、公式戦で次第にスタメンから外れることが多くなりDFBポカールの決勝のメンバーでも外れることをジョセップ・グアルディオラが発表しロベルト・レヴァンドフスキの獲得もあり退団が確実視された。後に本人はグアルディオラとの確執をほのめかしている 2014年7月、バイエルン・ミュンヘンのスポーツディレクター、マティアス・ザマーがアトレティコ・マドリードとバイエルン及びマンジュキッチ本人との間に移籍合意していることを明かした〔マンジュキッチ、アトレティコ移籍が最終段階に Goal.com 2014年7月9日〕。その後、4年契約でアトレティコに加入することが発表された。背番号は9番。8月22日のスーペルコパ・デ・エスパーニャのレアル・マドリード戦で決勝点を決め、公式戦初得点を記録した。 しかし、負傷の影響もあって後半戦は不調、29試合で10得点に終わった。 2015年6月、ユヴェントスFCのマッシミリアーノ・アッレグリがマンジュキッチ獲得の報道を認め、後にユヴェントスFCがマンジュキッチ獲得を正式発表した。契約は4年間で移籍金は1900万ユーロ。背番号はダビド・トレゼゲが着用し本人がクロアチア代表でも着用している17番。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリオ・マンジュキッチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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