翻訳と辞書 |
マリク・シャー[ちょうおん]
マリク・シャー(ペルシア語アラビア語 ملکشاه Malik Shāh、ペルシア語 جلال الدولة معّز الدين أبو الفتح ملكشاه بن الپ ارسلان Jalāl al-Dawla Mu'izz al-Dīn Abū al-Fatḥ Malik Shāh b. Alp Arslān、1055年8月8日 - 1092年11月19日)あるいはマリク・シャー1世(-いっせい)は、セルジューク朝の第3代スルタン。第2代スルタンのアルプ・アルスラーン(Alp Arslan)の子(在位:1072年-1092年)。マリクはアラビア語で、シャーはペルシア語で、それぞれ「王」を意味する。アッバース朝カリフから授けられた尊号は سلطان جلال الدولة معّز الدين أبو الفتح ملكشاه يمين امير المؤمنين Sulṭān Jalāl al-Dawla Mu'izz al-Dīn Abū al-Fatḥ Malik Shāh Yamīn Amīr al-Mu'minīn。 == 経歴・業績 ==
=== 即位とイスファハーン遷都 === 1072年に父アルプ・アルスラーンがマー・ワラー・アンナフル遠征中に急死したことにより、長男のマリク・シャーは17歳という若年でスルタンに即位した。しかしこれは彼の アタベクで名宰相(ワズィール)と称されたニザームルムルクの画策するところが大きく、伯父で父アルプ・アルスラーンの長兄であった ケルマーン・セルジューク朝の始祖カーヴルド・ベクがスルターン位を求めて反乱を起こした。翌1073年にカーヴルドは捕縛され処刑されるたが、カーヴルドの息子たちは已然としてケルマーンで強勢を保っていたため討伐は実現し難く、マリク号を剥奪するかわりにアミール位を与えてカーヴルド家によるケルマーンの支配を事実上黙認した。また、さらに1074年にはイラン東部ホラーサーン地方の主都ニーシャープールを領有していた弟のテキシュが反乱を起こすなど、治世の初頭は親族間との紛争に悩まされた。 これにともなって王都(ダール・アル=ムルク)をエスファハーンに定めた。この位置は東南部の強力なカーヴルド王家と西南部のアッバース朝に対しにらみを利かせることが狙いであるが、北方のレイ、 マーザンダラーンなどカスピ海南岸地域、東方のホラーサーン、 マー・ワラー・アンナフル、西方のルーム、 シリア方面への接続にも利便性が高かったため、治世中に展開した領土拡張にも大いに地の利を得る形となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリク・シャー」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|