|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
マリボル(スロベニア語Maribor ''マーリボル''、ドイツ語 Marburg an der Drau ''マールブルク・アン・デア・ドラウ'')は、スロベニア北東部の市。スロベニアの中で2番目に大きい都市であり、11の特別市のうちの1つである。 マリボルは、ドラヴァ川とポホリェ山地が出会う場所、ドラヴァ川谷にある。シュタイエルスカ地方最大の都市で、オーストリアのグラーツとはおよそ60km程度の距離である。 == 歴史 == === 中世 === 1164年、マルヒブルヒ(''Marchburch''、中高ドイツ語で三月の城)で知られる城が、シュタイアーマルク公国における記録に記された。マリボルは1204年に初めて城近くの市場として記載され、1254年に町の特権を授けられた。1278年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世がボヘミア王オタカル2世に勝利した後、急速に町は発展した。マリボルは1480年と1481年の2度マティアス・コルヴィヌス軍に、1532年と1683年の2度オスマン帝国軍に包囲された。市は1918年までハプスブルク家の支配下にあった。 19世紀以前のマリボルはカトリック教会のグラーツ=セッカウ司教座に含まれ、1859年6月1日にはラヴァント司教座の一部となり、司教公の本拠地となった。司教座の名前(スロベニア北部コロシュカ地方を流れドラヴォグラード村でドラヴァ川に合流する川の名前)が1962年3月5日、マリボル司教座へと変わった2006年4月7日、ローマ教皇ベネディクト16世によって司教座は大司教座へ昇格した。 第一次世界大戦前、市の人口80%はドイツ人で、20%がスロベニア人であった。都市と公共生活の多くがドイツ人の手に握られていた。そのために、市のドイツ語名マルブルク・アン・デア・ドラウが主として知られていた。1910年に行われた最後のオーストリア=ハンガリー帝国の国勢調査によると、マリボルと郊外のストゥデンツィ(ドイツ語名ブルンドルフ)、ポブレツィエ(ポバーシュ)、テズノ(テゼン)、ラドヴァニェ(ロトヴァイン)、クルツェヴィナ(カルトショヴィン)、コシャキ(ライターシュベルク)は、31,995人のドイツ人と6,151人のスロベニア人で構成されていた。拡大した周辺地域はほとんど排他的にスロベニア人が占め、多くのドイツ人はプトゥイのような小さな町で暮らしていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリボル」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Maribor 」があります。 スポンサード リンク
|