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マリン・ドルジッチ : ミニ英和和英辞書
マリン・ドルジッチ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


マリン・ドルジッチ : ウィキペディア日本語版
マリン・ドルジッチ

マリン・ドルジッチ(Marin Držić、クロアチアの発音mâriːn dř̩ːʒitɕ; ''マリノ・ダルザ''もしくは''マリノ・ダルサ''ともいう; 1508年 – 1567年5月2日)はルネサンス期における最も優れたクロアチア人の劇作家、散文作家と見なされている。
==生涯==
ドルジッチは、ドゥブロヴニクの大きく裕福な家庭(5人の兄弟と6人の姉妹がいた)に生まれた。彼の反抗的な気質にはとても合わないといわれていたが、司祭になることを定められ、養育された。彼の叔父のDžore Držićも有名なクロアチアの作家であった。マリン・ドルジッチは1526年に司祭に任命され、1538年、教会法を学ぶためトスカーナ州シエナに送り出された。そこでの彼の学業の成績は並であった。外向的で温厚な性格のおかげで、同級生や教授の心をつかんだと言われ、そして大学の学長に選ばれた。彼は勉強への興味を失い、1543年、ラグサ共和国に帰った。
マリン・ドルジッチはオーストリアの探検家のクリストフ・ローゲンドルフ(Christoph Rogendorf)と知り合いになり、さらにウィーンの法廷ともめごとを起こした。ウィーンに短期間滞在した後、ドルジッチは生まれた街に戻った。その後も放浪してはいろいろな事績を残し、ドゥブロヴニクの無法者のグループとかかわったり、コンスタンティノープルへの旅やヴェネツィアへの短い旅をした。翻訳家や代書人、教会の音楽家を職業とした後、陰謀をたくらむことさえした。彼は、ドゥブロヴニクが暴政によって歪められた一部のエリート主義の貴族政治で統治されていると確信して、フィレンツェにある力を持ったメディチ家に、ドゥブロニクの政府を打倒する助けをしてほしいと5通の手紙(4通は現存している)を送って説得しようとした。メディチ家はそれに対して応答しなかった。マリン・ドルジッチはヴェネツィアで突然、1567年5月2日に没した。彼は、聖パウロ・聖ヨハネ教会に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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