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マリーナ・ツヴェタエワ : ミニ英和和英辞書
マリーナ・ツヴェタエワ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マリーナ・ツヴェタエワ ( リダイレクト:マリーナ・ツヴェターエワ ) : ウィキペディア日本語版
マリーナ・ツヴェターエワ[ちょうおん]

マリーナ・イヴァーノヴナ・ツヴェターエワ(、1892年10月8日ユリウス暦9月26日) - 1941年8月31日)は、ロシア詩人、著述家である。モスクワに生まれ10代で詩壇にデビュー、叙情詩、特に恋愛に関する機知と情熱、憂愁に満ちた作品で知られる。ロシア革命の中で西欧に亡命、波乱の人生の末に帰国し、疎開先で自殺。ソ連体制下で長く存在が無視されていたが、1960年代に復権。現在のロシアでもっとも人気がある詩人の一人である。
== 生涯 ==
父はモスクワ大学教授で、アレクサンドル3世美術館(現在のプーシキン美術館)の創設者であるイワン・ツヴェターエフ。母のマリアはポーランドの血を引く教養人で、ピアノの才能があった。1902年にマリアが結核を発症、イタリアなどで保養することになり、マリーナは各地を転々とする。1910年、処女詩集『夕べのアルバム』を自費出版、高い評価を受け、詩壇に躍り上がる。
1912年、セルゲイ・エフロンと結婚。二女を得るが、その後男女を問わずさまざまな恋愛(両性愛)を繰り返し、詩作を続ける。ロシア革命中、エフロンは白軍に参加。マリーナはモスクワで過ごしたが、次女が栄養失調で死亡。亡命した夫を追って1922年、ドイツに脱出する。その後、チェコパリを転々とし、亡命ロシア人社会で創作を続けるが長男が生まれる一方で、生活は困窮。エフロンはソ連に傾倒し、帰国を熱望するようになる。
ソ連諜報機関の工作活動に関与、ソ連に戻らざるを得なくなった夫、エフロンを追って1939年、帰国。その後、エフロンと娘は逮捕される。マリーナは息子とともに窮状に追い込まれ、1941年疎開先のタタール自治共和国エラブガの農家で自らの首を吊り自殺。同地で埋葬された。エフロンは処刑され、息子もその後、ベラルーシ方面で戦死する。
スターリン体制終焉で、流刑先から解放された娘のアリアドナが精力的に母の作品を発掘。1960年代のマリーナ・ツヴェターエワ復権につながっていく。最近になってモスクワ市内に銅像も建立された。
作品は『マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲』(ショスタコービッチ)など音楽の題材としても取り上げられている。ツヴェターエワの代表作のひとつ『(私がうれしいのは)』は、ロシアの人気歌手アーラ・プガチョワの歌でも知られている。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マリーナ・ツヴェターエワ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Marina Tsvetaeva 」があります。




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