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マリー・クリスティーネ・フォン・オルレアンス(Marie Christine von Orléans, 1813年4月12日 - 1839年1月6日)は、ヴュルテンベルク公子アレクサンダーの妻。フランス語名マリー・クリスティーヌ・ドルレアン(Marie Christine d'Orléans)。 オルレアン公ルイ・フィリップ3世(のちのフランス王ルイ・フィリップ)と妃マリー・アメリーの次女として、パレルモで生まれた。姉にベルギー王妃ルイーズ・マリーがいる。 1834年初め、7月王政の安泰を目指すため、マリーの母方の従兄の両シチリア王フェルディナンド2世は、自身の弟シラクサ伯レオポルドとマリーの結婚をルイ・フィリップに持ち出した。レオポルドは、7月革命でフランスを追われたベリー公シャルルの妃マリー・カロリーヌの異母弟にあたる。 しかしながら、1834年4月にフランスで起きた小規模の反乱に衝撃を受け、ナポリの両シチリア宮廷は、マリーをただちにレオポルドの元へ送り出すよう求めてきた。ルイ・フィリップ王の子供として、資産家であるオルレアン家の遺産を相続する権利のあるマリーを手中に置きたかったためである。この露骨で常識はずれな要求にフランス側があきれ、結婚話は潰れた。 1837年、マリーはアレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルクとヴェルサイユ宮殿で結婚した。挙式はカトリック式とルター派にのっとって、それぞれ1回ずつ行われた。ヴュルテンベルク王位継承順位からほど遠いアレクサンダーとの結婚の利点は、彼の母親アントイネッテがベルギー王レオポルド1世の姉であり、アレクサンダーは甥にあたることから隣国ベルギーに介入しやすいとの一点であった。 1838年、マリーは肺結核を患い、回復に一縷の望みをかけて温暖なピサで療養していた。ルイ・フィリップ国王夫妻に依頼されてマリーの元へやってきた弟ヌムール公ルイ・シャルルは1839年1月6日、姉の亡くなった日に到着した。マリーの遺体は、オルレアン家の菩提寺であるドルーの礼拝堂に埋葬された。 ==子女== *フィリップ(1838年 - 1917年) - 長男アルブレヒトは、男子のいなかった最後のヴュルテンベルク王ヴィルヘルム2世の死後、最近親の男子であることからヴュルテンベルク家の家長となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリー・クリスティーネ・フォン・オルレアンス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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