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マリー・ボンファンティ : ミニ英和和英辞書
マリー・ボンファンティ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マリー・ボンファンティ : ウィキペディア日本語版
マリー・ボンファンティ[ちょうおん]

マリー・ボンファンティMarie Bonfanti1845年2月16日 - 1921年1月25日)は、イタリア出身のバレエダンサーバレエ指導者である〔『オックスフォード バレエダンス辞典』pp. 512-513.〕。イタリアやロンドンで舞台に立った後にアメリカ合衆国に渡り、『黒衣の盗賊』(:en:The Black Crook)〔日本では原題通りの『ブラック・クルーク』という表記や『黒い悪人』という表記も見られる。〕という作品に出演して人気を得た〔。アメリカ合衆国でバレエダンサーとして活躍し、現役を退いた後はニューヨークで後進の指導にあたった〔。の師として知られ、アメリカ合衆国のバレエ発展に貢献した人物である〔〔鈴木、pp. 208-210.〕。
== 生涯 ==
ミラノの生まれ〔。ミラノ・スカラ座のバレエ学校でカルロ・ブラジスに師事し、個人的な指導も受けていた〔。1860年代の前半に舞台デビューし、イタリアやロンドンで踊った〔。
1866年、ボンファンティはアメリカ合衆国に渡り、その地での活動を開始した〔。契約に際して、彼女は常に「プリマ・バレリーナ・アッソルータ」の称号を要求していたという〔。渡米後のボンファンティは、「大パリ・バレエ団」(''Great Parisienne Ballet Troupe'')に加入し、同じくミラノ出身のリタ・サンガッリとともにプルミエール・ダンスーズを務めることになった〔。
ボンファンティはその年の9月10日にブロードウェイにあったニブロズ・ガーデン劇場(:en:Niblo's Garden)に初登場した〔"Amusements", ''The New York Times'', September 10, 1866, p. 5.〕〔『オックスフォード バレエダンス辞典』p. 177〕。大パリ・バレエ団は、同劇場で9月12日に初演された『黒衣の盗賊』(:en:The Black Crook)という作品に出演した〔〔〔『オックスフォード バレエダンス辞典』p. 190〕〔薄井、pp. 178-180.〕。この作品は、人間の魂を毎年1人ずつ悪魔に捧げるという契約を結んだ通称を『黒衣の盗賊』というペテン師と、その犠牲になりかかる若い恋人たちの物語であった〔。『黒衣の盗賊』は純粋なバレエ作品ではなく、音楽・ダンス・演劇を取り混ぜた1大スペクタクル作品で上演には4時間半を費やしたという〔〔。この作品はニューヨークで16か月も続演するほどの大成功を収め、その後アメリカの各地を巡演した〔〔。なお、『黒衣の盗賊』は後世の人から「アメリカ・ミュージカルの始祖」と言われるほどの重要な作品と評価され、アメリカの舞台芸術史上に大きな位置を占めている〔。
ボンファンティはその後アメリカ合衆国の各地を巡演し、『黒衣の盗賊』のようなミュージカル・レヴューにいくつか出演した〔。1882年7月15日、メトロポリタン・アルカサル・コンサートホールでの『シルヴィア』(レオ・ドリーブ作曲)にも出演している〔"Amusements", ''New York Times'', July 16, 1882, pg. 6.〕。彼女はミラノ・イタリア大歌劇団という団体のプリマ・バレリーナを務め、またニューヨークのメトロポリタンオペラ歌劇場(:en:Metropolitan Opera House (39th St))のプリマ・バレリーナを1885年と1886年の両年に務めた〔。
ボンファンティの舞踊表現における活動は、1860年代の半ばから20世紀の初頭にわたって広範に継続し、アメリカ合衆国のバレエ発展と普及に大きな貢献を果たした〔〔。彼女は1892年に一度引退したが、1901年8月に復帰して、かつて大パリ・バレエ団でともに踊ったリタ・サンガッリと合同でメトロポリタンオペラ歌劇場で公演を行った〔〔"Revival of the Ballet", ''The New York Times'', September 1, 1901, p. SM3.〕。引退後にニューヨークで舞踊学校を開設し、1916年まで指導にあたった〔。アメリカ合衆国におけるモダン・ダンスの先駆者の1人として知られるルース・セント・デニスは彼女の教え子であった〔〔。ボンファンティはジョージ・ホフマンという男性と結婚している〔"The Bonfanti Romance", ''The New York Times'', December 31, 1876, p. 5.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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