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ルキウス- あるいはマルクス・アンナエウス・セネカ(Lucius-、Marcus Annaeus Seneca、紀元前54年頃 - 後39年頃)は古代ローマの修辞学者、著述家。小セネカの父として大セネカとも呼ばれる。彼のプラエノーメンは不明であり、「ルキウス」とされる場合〔も、「マルクス」とされる場合もある。前者ならば息子の小セネカと同姓同名ということになるが、後者はラファエロ・マフェイ (:en:Raffaello Maffei)が根拠無しに推測したものである。 == 経歴 == 彼はヒスパニアのコルドバにある富裕なエクィテス(騎士階級)の家に生まれた。彼より先の祖先がイタリアからの移民なのか、スペイン土着なのかは分かっていない。彼は2度にわたる長期のローマ滞在中、著名な演説家と修辞学者の教えを受け、法廷弁論家として公に認められる経歴を目指した。のち弁論術の高度な使い手として、弁論術の教授や法廷弁論で財を築いた〔。 カエサルとポンペイウスのローマ内戦の間、コルドバの人々がそうであったように、彼が支持したのはポンペイウス側であったかもしれない〔。またそれは彼の息子と孫(詩人のルカヌス)も同様だった。妻であるコルドバ出身のヘルビアとの間には、以下の3人の息子をもうけた。 * ルキウス・アンナエウス・ノバトゥス。大セネカの友人で修辞学者のルキウス・ユリウス・ガリオの養子になり、後にルキウス・ユリウス・アンナエウス・ガリオ (en) と呼ばれた。彼は新約聖書『使徒行伝』18:12-17に「アカヤ総督ガリオ」として登場する〔。 * ルキウス・アンナエウス・セネカ(小セネカ) * アンナエウス・メラ(その息子は詩人のマルクス・アンナエウス・ルカヌス) 小セネカがクラウディウスから追放されたのは大セネカの没後であり〔41; Seneca, ''ad Helviam'', ii. 4〕、大セネカの著作で最後に言及されたのはティベリウスの死の直後の時期に関するものなので、おそらく彼は39年頃に没した。 大セネカが理想としたのはキケロだった〔。大セネカはギリシャ哲学を嫌悪し〔、また当時の雄弁術の派手派手しい傾向には失望していた。大セネカの気質は剛直かつ現実主義の典型的ローマ人であり、哲学的原理よりは実学をもって社会での地歩と財産を築くことをよしとした〔。大セネカの研究は、イタリア本土よりはむしろスペイン精神史への影響という関心から為される傾向が強い〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルクス・アンナエウス・セネカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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