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マルクス・テレンティウス・ウァロ(, 紀元前116年 - 紀元前27年)は、共和政ローマ期の学者、著作家、政治家である。「レアテのウァッロ」(ウァッロ・レアティヌス、Varro Reatinus)とも称される。同時代人のウァロ・アタキヌスとは別人である。'', 紀元前116年 - 紀元前27年)は、共和政ローマ期の学者、著作家、政治家である。「レアテのウァッロ」(ウァッロ・レアティヌス、Varro Reatinus)とも称される。同時代人のウァロ・アタキヌスとは別人である。 ==生涯== レアテ(Reate, 現リエーティ)もしくはその近郊で生まれた。家はエクィテス階級と考えられ、ウァロの老年までReatine平野の、おそらくLago di Ripa Sottile近くに広い農場を所有していた。 ウァロはローマの言語学者ルキウス・アエリウス・スティロ(:en:Lucius Aelius Stilo Praeconinus)の下で、後にはアテナイのアカデメイアの哲学者アスカロンのアンティオクス(:en:Antiochus of Ascalon)の下で勉強した。政治的にはグナエウス・ポンペイウスを支持し、護民官、クァエストル(財務官)、アエディリス(按察官)を経た後、プラエトル(法務官)の職に就いた。また、ガイウス・ユリウス・カエサルが執政官(コンスル)を務めていた紀元前59年にはカプア及びカンパニア再植民計画を実行する20人の委員の1人となった。 紀元前49年からのローマ内戦ではポンペイウスら元老院派に組して、ルキウス・アフラニウスやマルクス・ペトレイウスと共にヒスパニアの元老院派軍を率いてカエサル軍に抵抗したが、イレルダの戦いで敗北、ウァロは元老院派の本軍が駐留していたギリシアへと逃れた〔カエサル「内乱記」2.17-20〕。紀元前48年8月のファルサルスの戦いでは元老院派の兵站基地であったデュッラキウム(現:ドゥラス)の守備に就いたが、元老院派のファルサルスでの敗戦、ポンペイウスの死を受けてマルクス・トゥッリウス・キケロらと共にカエサル派に降伏した。 紀元前47年にカエサルからローマの公立図書館長に任命された。紀元前44年にカエサルが暗殺されマルクス・アントニウスが権力を握るとウァロは追放され、結果としてウァロの蔵書を含む多くの資産が失われた。アクティウムの海戦でアントニウスが敗死しアウグストゥスが覇権を掴むと、側近のガイウス・マエケナスの影響もあって文化の保護に積極的であったアウグストゥスの庇護を受けて、ウァロは研究と著作に専念することができるようになった。アウグストゥスがローマ帝国初代皇帝となった紀元前27年に没したと伝わっている。 多くの著作がある中、ウァロの編纂した『年代記』は特に歴史家たちの関心を引くもので、それはウァロの時代までの毎年のローマの正確な年表を明らかにしようと試みたものである。共和政ローマの執政官の因習的な順序に基づいて作られたが、どうしてもあてはまらないところには、独裁政権や無政府状態の年を挿入することでその不足を補った。いくらかの誤りも明らかになったものの、ローマのアウグストゥスの門に刻まれたことで大部分は広く受け入れられ、権威ある年代記となっている。門自体は既に失われているが、『ファスティ・カピトリヌス』の名前で年代記の大部分は現存している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルクス・テレンティウス・ウァロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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