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マルクス・トゥッリウス・キケロ(, 紀元前106年1月3日 - 紀元前43年12月7日)は、共和政ローマ期の政治家、文筆家、哲学者である。 == 生涯 == === 順風満帆な出発 === 祖先に顕職者を持たない「ノウス・ホモ」で、アルピヌムの出身であった。キケロは、若い頃に友人から「無名の家名(キケロ家)を避けた方がよい」とアドバイスを受けたが、「私自身の手で、キケロ家をスキピオ家やカトゥルス家より有名にしてみせる」と語ったという。 弁論家ポセイドニオスに師事した。紀元前81年に法律家としての活動を始めた。しかし、当時ローマの終身独裁官であったルキウス・コルネリウス・スッラの威勢に刃向かうような弁護を引き受け、その裁判で勝訴してしまった。そのため、アテナイへと一時期逃れて、弟クィントゥスと共にアカデメイアを訪れた。なお、アテナイでキケロは後に終生の友人となるティトゥス・ポンポニウス・アッティクスに出会ったといわれている(彼は、アテナイに居を構えていた)。 スッラの死後、キケロは、再びローマへ戻り、紀元前76年クァエストル(財務官)に就任し、シキリア属州リリュバエウム行政区を担当した。紀元前70年、アエディリス(按察官)在任時に、シキリア総督によるシキリアでの苛斂誅求を断罪した。このときの弁論を加筆修正したものは、『』としてまとめられ、現在では、その当時の属州政治の内実を知るための貴重な資料となっている。この裁判で、キケロは、当時名声を博していたを相手に勝利した。ことから、キケロは、一躍名声を上げ、紀元前66年プラエトル(法務官)を経験した後、紀元前63年に執政官に就任した。執政官在任中に起きたルキウス・セルギウス・カティリナ一派による国家転覆未遂事件において、マルクス・ポルキウス・カトらの助力を得て、首謀者を死刑とする英断を下し、元老院から「祖国の父」(''pater patriae'') の称号を得る。 また、紀元前75年のシキリア属州への赴任時期に、アルキメデスの墓を発見している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルクス・トゥッリウス・キケロ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cicero 」があります。 スポンサード リンク
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