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マルグリット・オードゥー(フランス語:Marguerite Audoux、1863年7月7日 - 1937年1月31日)は、フランス・出身の小説家。 日本ではフランス文学者の堀口大學や河合亨が翻訳した『少女マリー(Marie-Claire)』の著作で知られ、1910年にこの作品でフェミナ賞を受賞した。 最期は不遇のうちに亡くなったが、その素朴な作品は写実的で、「何故あんなに美しい物語を書けるのか?」と言う質問に対し「あたし、なんにも知りませんの。あたし、なんにも学んだことがないんですの。ただ、あたしは、夢想することが好きでした!」〔訳は堀口大學である。〕と答えるだけだったと言うエピソードで知られる。 == 生涯 == 1863年7月7日にフランス第二帝政時、フランス帝国シェール県のサンコアンに生まれる。しかし彼女が3歳の頃に母親が亡くなって父親から捨てられた。妹のマドレーヌと共に叔母の元で育てられるが、最終的にブールジュの孤児院で9年間過ごすことになった。 1877年にはで羊飼いとして働き、地元の少年のアンリ(''Henri Dejoulx'')と恋に落ちるが、彼の両親が認めなかったため、結婚はしなかった。 1881年、パリに移り、お針子として貧しくも必死に働いた。1883年には流産を経験している。彼女が住んでいたレオポール・ロベール街の家は、多くの芸術家のためのオアシスになっていた。これは当時世話をしていた姪が彼女をパリの芸術家たちに紹介したことによるものである。同国出身の小説家シャルル=ルイ・フィリップらから激励され、オードゥーはオクターヴ・ミルボーの勧めによって自伝的小説『マリー・クレール』を著した。 1910年に処女作の『孤児マリー』で同年のフェミナ賞を受賞。その後も「マリーシリーズ」である『マリーの仕事場』(1926年)や『『町から水車場へ』(1926年)を著した。他にも『婚約者』(1932年)や、彼女が生前著した最後の作品である『光ほのか』(1937年)の作品がある。 1937年1月31日、彼女の愛した海の近くのヴァール県サン=ラファエルで亡くなる。オードゥーは生涯を通して素朴な作風の小説を書いていたため、不遇のうちに没した。今日では顧みられることは無い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルグリット・オードゥー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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