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マルグリット・ロン : ミニ英和和英辞書
マルグリット・ロン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


マルグリット・ロン : ウィキペディア日本語版
マルグリット・ロン

マルグリット・ロン(Marguerite Long, 1874年11月13日 - 1966年2月13日)は20世紀前半のフランスを代表するピアニストピアノ教育者。
== 生涯 ==
1874年11月13日、フランス南部のガール県ニームに生まれる。ニーム音楽院で8歳上の姉クレールからピアノの指導を受けるが、当時視学官をしていたテオドール・デュボワ(のちのパリ音楽院院長)の勧めで1889年にパリ音楽院入学。
1891年パリ音楽院ピアノ科を一等賞で卒業。名教師として名高いアントワーヌ=フランソワ・マルモンテル1816年-1898年)の息子アントナン・マルモンテル1850年-1907年)の指導を受けつつ演奏活動を開始する。
1906年、大のフォーレ・ファンであった音楽学者のジョゼフ・ド・マルリアーヴと結婚。新婚旅行の最中に呼び戻され、パリ音楽院の予備科講師となる。
1907年、急逝した師アントナン・マルモンテルのクラスを継ごうと高等科教授に立候補したが、当時の院長であったフォーレ(院長在職期間、1905年 -1920年)はロンより3歳若いアルフレッド・コルトーをどうしても教授にしたかったため、彼女に次の機会には必ず教授に推薦するからと手紙で約束し、引き下がらせた。ところがそれが逆効果となり、1913年に約束の教授の地位が与えられなかったことにロンは立腹、遂にマルリアーヴ夫妻はフォーレと仲たがいする結果となる。
1914年8月、夫マルリアーヴが第一次世界大戦に従軍し、8月24日戦死。悲しみに打ちのめされステージから遠ざかったが、1917年に演奏活動を再開させる。1919年4月にはモーリス・ラヴェルが戦没者に捧げたピアノ組曲『クープランの墓』(第6曲「トッカータ」が亡き夫に捧げられている)を初演。
1920年ルイ・ディエメの死後、その後任として音楽院高等科正教授に就任。同年、自身の音楽学校を創設し、これが1941年にはロン=ティボー音楽学校となる。
1932年1月、自身に献呈されたラヴェルのピアノ協奏曲ト長調を初演。作曲者とともにこの協奏曲を携え、ヨーロッパ中を演奏旅行する。
1935年、フォーレとは仲たがいをしたというものの、アンリ・ド=ジュヴネル夫人主宰の「ガブリエル・フォーレ協会」設立に助力。 1937年-1939年にはフォーレ協会主催でフォーレ・コンクールを開催。
1943年、ヴァイオリニストのジャック・ティボーとともに第1回ロン=ティボー国際コンクールを開催。このコンクールは現在でも行われ、若手音楽家の登龍門となっている。
1966年2月13日、パリにて永眠(91歳)。葬列でラヴェル作曲『ダフニスとクロエ』の演奏されるなか、故郷ニームへと帰った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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