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マルコス・アントニオ・セナ・ダ・シウバ(Marcos Antonio Senna da Silva, 1976年7月17日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身のサッカー選手。北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスに所属する。元スペイン代表。ポジションはMF(センターハーフ)。 ブラジル出身であるが、2005年にスペイン国籍を取得、スペイン代表として2006 FIFAワールドカップとEURO2008に出場した。いとこに元ブラジル代表のマルコス・アスンソンがいる。 2009年5月、移民の子供たちのためにマルコス・セナ財団を設立した。 == クラブ経歴 == 子供の頃のアイドルはロマーリオであった〔ワールドサッカーダイジェスト、2009年2月5日号〕。ブラジルの名門サンパウロFCの下部組織出身で、リオ・ブランコECでプロデビューする。アメリカ-SPで活躍したために1999年にコリンチャンスに引き抜かれ、ブラジル全国選手権優勝とFIFAクラブワールドカップ優勝を経験した。レンタルに出されたジュベントゥージの次に在籍したADサンカエターノは規模の大きいクラブではなかったが、コパ・リベルタドーレスで準優勝を果たした。ADサンカエターノでともにプレーしたブランドンがいたシャフタール・ドネツクにも誘われていたが、スペインのビジャレアルCFに移籍した。 2002-03シーズン途中、レアル・ベティス戦で左足十字靭帯損傷の大怪我を負い、残りのシーズンを棒に振った。2003年のプレシーズンには再び靭帯を怪我し、長いリハビリ生活を過ごした。2004-05シーズンはリーグ戦を3位で終え、2005-06シーズンはUEFAチャンピオンズリーグでベスト4に入った。2006年7月にはロイ・キーンの後継としてイングランドのマンチェスター・ユナイテッドFCに移籍する可能性があったが、結局残留した。 2007-08シーズンはキャリア最高とも言える働きを見せ、リーグ戦をクラブ最高位の2位で終えた。レアル・ベティス戦でセンターサークルの中から決めたロングシュートについて、「生涯最高のゴール」だと語っている。欧州選手権で活躍したために2008年夏のプレシーズンでは移籍の噂が絶えなかったが、フェルナンド・ロイグ会長がセナの違約金を3600万ユーロまで引き上げて他クラブを牽制し、セナ自身も残留を希望したために噂は立ち消えになった。 2008-09シーズン、3シーズンぶりに出場したUEFAチャンピオンズリーグでは、2008年9月30日に行われたグループリーグのセルティックFC戦で22分にフリーキックを決め、ベスト8進出に貢献した。11月25日のホームでのマンチェスター・ユナイテッドFC戦では違和感を持ったためにみずから交代を要求し、ハーフタイムにブルーノ・ソリアーノと交代した。準々決勝のアーセナルFC戦では10分にミドルシュートで先制点を挙げた。しかし、2009年4月11日のマラガCF戦で左足のハムストリングを負傷したために準々決勝セカンドレグには出場できなかった。怪我から2週間後に同箇所を再度痛め、残りのシーズンで試合に出場することはなかった。7月30日、約3ヵ月半ぶりにチーム練習に復帰した。9月、11月にも同じ個所を痛め、2009-10シーズン前半戦は試合を欠場することが多かった。 2011-12シーズン、チームは開幕から低空飛行を続け、前シーズン4位で出場を果たしたチャンピオンズリーグでも1次リーグを6戦全敗(ただし、バイエルン・ミュンヘン、マンチェスター・シティ、SSCナポリが入ったいわゆる『死のグループ』であった)。結局、2度の監督交代も実らず、チームは12年ぶりのB降格を味わうことになったが、セナはいち早くチームへの残留を表明。これを受け、チームもこれまでの彼の貢献を称え、背番号と同じスタジアムの19番ゲートを『セナゲート』と改名すると発表した。 2013年6月、11年在籍したビジャレアルを退団してニューヨーク・コスモスに加入。 2015年6月10日、シーズン限りでの現役引退を表明した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルコス・セナ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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