|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
マルコルギス・ウケクト・ハーン(、1448年 - 1465年)は、モンゴル帝国の第30代(北元としては第16代)大ハーン。漢語資料〔『明実録』、『明史』韃靼伝〕では馬児苦児吉思、麻馬児可児吉思、麻児可児、馬可古児吉思、馬古可児吉思と表記される〔『明史』韃靼伝では麻児可児と馬古可児吉思が別人のように記されているが、同一人物である。《羽田・佐藤 1973,p21》〕。「マルコルギス(Markörgis)」は「聖ゲオルギオス」のシリア語名であり、キリスト教との関連性を指摘する意見もある〔森川 1999,p93〕〔岡田 2004,p211〕。 ==生涯== 1448年〔『蒙古源流』では丙寅の年(1446年)としている。《岡田 2004,p210-211》〕〔1446年とする意見もある。《岡田 2010,p233,246》〕、タイスン・ハーン(トクトア・ブハ)とオイラトの族長エセン・タイシの姉(小ハトン・サムル太后)との間に生まれる。 初め、エセン・タイシは自分の甥であるマルコルギスを太子にしようとしていたが、タイスン・ハーンが別の妻が生んだ子を立てようとしたので、エセン・タイシはこれに文句を言った。するとタイスン・ハーンは兵を率いてエセン・タイシに攻めかかったが逆に敗れてしまう。タイスン・ハーンは姻戚のウリヤンハン部に逃れるが、シャブダン(沙不丹)という者によって殺された(1451年)。〔岡田 2004,p199-200〕 タイスン・ハーンを滅ぼしたエセン・タイシは北元の皇族を皆殺しにし、オイラト人を母に持つ者だけを助命した。そのため、マルコルギスは難を逃れることができた。1453年、エセン・タイシは「チンギス統原理」を無視して大ハーンの位に登り、「大元天聖大ハーン」と称した。しかし、その支配は長くは続かず、翌1454年にアラク・チンサン(阿剌知院)の叛乱によって敗れ、逃走中に殺された。〔岡田 2004,p208-209〕 1455年、ボライ(孛来)らモンゴルの部族長たちによって、マルコルギスは7歳で大ハーンに擁立され〔森川 1997,p331〕、ウケクト・ハーンと名付けられた〔岡田 2004,p210〕。幼少で即位したために明は彼を「小王子」と呼び〔、以降中国で「小王子」は幼年で即位したハーンを指す称号として用いられる〔羽田・佐藤 1973,p19〕。即位後の彼に実権は無く、族長たちの傀儡にすぎなかった〔岡田 2010,p69〕。 マルコルギス・ウケクト・ハーンの在位中はボライが明朝とのやり取りをし、侵入・略奪もおこなうなど、勝手な振る舞いをしていたため、マルコルギスとボライは敵対していた。〔羽田・佐藤 1973,p20-21〕 1465年〔『明史』韃靼伝では成化二年(1466年)とし、『蒙古源流』では癸酉の年(1453年)と誤っている。〕、マルコルギス・ウケクト・ハーンはボライによって殺害された〔『蒙古源流』では七トゥメトのドガラン・タイジによって殺されている。《岡田 2004,p210》〕。ボライはまもなくオンリュートのモーリハイ(毛里孩 Maγoliqai、ムラハイ王 Mulaqai ong)によって殺され、モーリハイがモーラン(Molan)〔『蒙古源流』では「ムラン・ハーン」。〕を大ハーンとした。〔羽田・佐藤 1973,p24〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルコルギス・ハーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|