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マルコ・ペルコビッチ : ミニ英和和英辞書
マルコ・ペルコビッチ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


マルコ・ペルコビッチ ( リダイレクト:トンプソン (バンド) ) : ウィキペディア日本語版
トンプソン (バンド)

トンプソンクロアチア語:Thompson)はクロアチアロックバンド。その中心人物であり、リード・ヴォーカルソングライターであるM. P. トンプソン(M. P. Thompson)ことマルコ・ペルコヴィッチ(Marko Perković)のバンドとして認識されている。あるいは、トンプソンという名はマルコ・ペルコヴィッチ個人のことを示すことも少なくない。他のバンド・メンバーにはベースギタリストでサブ・ヴォーカルのティホ・オルリッチ(Tiho Orlić)がいるものの、それ以外のメンバーたちはあまり目立つことはない。Bilo jednom u Hrvatskojツアーのときのメンバーにはこのほかにダミル・リポシェク・ケックス(Damir Lipošek Kex)、フェドル・ボイッチ(Fedor Boić)、ダミル・ショメン(Damir Šomen)、トミスラヴ・マンダリッチ(Tomislav Mandarić)がいた。トンプソンという名称は、マルコ・ペルコヴィッチの愛称であったトンプソン・サブマシンガンに由来している。マルコ・ペルコヴィッチはナイトウィッシュアイアン・メイデンAC/DCなどの個人的なファンであると発言している〔Exclusive interview before the sought-after release of "Bilo jednom u Hrvatskoj" 〕。
トンプソンは毎年、「勝利と祖国への感謝の日」(enクロアチア紛争において、アンテ・ゴトヴィナが率いた嵐作戦によって、クライナ・セルビア人共和国がクロアチア軍に制圧された日。8月5日)に、マルコ・ペルコヴィッチの出身地であるチャヴォグラヴェでコンサートを行っている。2006年には、マルコ・ペルコヴィッチはマテ・ブリッチ(Mate Bulić)、ティホ・オルリッチ(Tiho Orlić)、ドラジェン・ゼチッチDražen Zečić)、イヴァン・ミクリッチIvan Mikulić)、バルニBaruni)とともに6万人の観客の前に立った〔Celebrations in Čavoglave at Večernji.hr〕。2007年には、ドラジェン・ゼリッチ、マテ・ブリッチとラッパーのショーティShorty)とともに5万人の観客の前に立った〔More than 50,000 in Čavoglave at Večernji.hr〕。
トンプソンは、シト・チョリッチ(Šito Ćorić)、ミロスラヴ・シュコロ(Miroslav Škoro)とともにクロアチア・ワールド・ゲーム(Croatian World Games)の公式曲を歌った〔Croatian World Games 〕。トンプソンはまたクロアチア権利党の公式曲を製作した〔HSP anthem 〕。トンプソンの楽曲「''Lijepa Li Si''」はミロスラヴ・シュコロ、マテ・ブリッチ、ジュリアーノ(Giulliano)、ムラデン・グルドヴィッチ(Mladen Grdović)、アレン・ヴィタソヴィッチAlen Vitasović)との共演によって作られた。その他の共演曲では、「''Ljuta guja''」でヤスミン・スタヴロスJasmin Stavros)、「''Reci brate moj''」でミロスラヴ・シュコロと共演している〔Ljuta guja 〕〔Reci, brate moj 〕。
オランダ政府はファシズムの宣伝の禁止を理由に、トンプソンの楽曲の歌詞がファシズム的であるとしてオランダでの活動を禁止している〔An article on Thompson on index.hr 〕。しかし、マルコ・ペルコヴィッチはボロボ・ナセリェBorovo Naseljeクロアチア紛争の勃発の地)でのBilo jednom u Hrvatskoj(en)ツアー・コンサートを前にインタビューに応え、「''栄光あるクロアチア軍の勲章を身につけろ。若者たちが歴史の中に引きこもり、プロパガンダへと落ちていってしまうことは悲しいことだ。''」と述べた〔Perković's interview for Index.hr before the concert in Vukovar at Index.hr〕。
== 歴史 ==
1991年クロアチア紛争の初期のころ、マルコ・ペルコヴィッチは「Bojna Čavoglave」(チャヴォグラヴェ大隊)で初めて脚光を浴びることになった。ペルコヴィッチは「トンプソン」の名義でこの曲を披露した。曲は「Za dom - Spremni!」という言葉から始まり、これは第二次世界大戦のときのウスタシャのスローガンであった(ジークハイルも参照)。ここから、この曲はもっぱら、セルビア人武装勢力からチャヴォグラヴェを防衛するクロアチア陸軍への呼びかけとなっている。この曲はクロアチア軍の士気を高めたとみられ、また同時に大変な人気を呼んだ。この曲はクロアチアの戦争音楽のコンピレーション「Rock za Hrvatsku」(クロアチアのためのロック)に登場した。
1992年、トンプソンは初のアルバムである『Moli mala』を発表した。ペルコヴィッチはこのときクロアチア軍を離れたものの、1995年には嵐作戦に参加するために短期の間、軍役に戻っている〔Marko Perković (1966 - ) 〕。その後、1990年代の間、時がたつにつれてペルコヴィッチはキャリア初期の人気を失い、低迷を続けた。彼は「''Zmija me za srce ugrizla''」(ヘビがオレのハートを噛んだ)、「''Grkinjo, znaj, svemu je kraj'' 」(ギリシャ女よ、我々は完遂したと知れ)など、いくらかの小規模なヒットはあったものの、1998年のヒット「Prijatelji」程度の人気を繰り返すにとどまった〔Boris Dežulović article on Thompson 〕。
2000年のクロアチア議会選挙によって、左派政権(クロアチア社会民主党と、クロアチア独立を牽引した指導者のイヴィツァ・ラチャンが率いる)が誕生すると、クロアチアの民族主義者の強い怒りを買い、トンプソンは再び人気を集めるようになった。マルコ・ペルコヴィッチはコンサートのなかで、当時の首相であったイヴィツァ・ラチャンならびに当時の大統領であったスティペ・メシッチを侮辱した〔。
多くのトンプソンの楽曲(「''Bojna Čavoglave''」、「''Lijepa Li Si''」、「''Vjetre s Dinare''」など)がクロアチアで大ヒットとなり、サッカーの試合やそのほかの大イベントの場で流されるようになった。トンプソンはクロアチアの音楽フェスティバルMelodije Mostaraで2001年に、Croatian Radio Festivalで2006年に優勝したのをはじめ、クロアチアの「勝利と祖国への感謝の日」には毎年コンサートを開いている。
トンプソンは、多くのセルビア人やユダヤ人などがヤセノヴァツ強制収容所en)で殺害されたファシズム時代のクロアチア(''クロアチア独立国を参照'')を示唆した曲「Jasenovac i Gradiška Stara」を歌ったと報じられている。この曲は今日のクロアチアにおける強烈な反セルビア主義、そして狂信的なクロアチア愛国主義を代表した曲と見られている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「トンプソン (バンド)」の詳細全文を読む




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