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マルク・マリー・ド・ロ(フランス語:Marc Marie de Rotz、1840年3月27日 - 1914年11月7日)は、パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師(司祭)である。1868年(慶応4年)6月に来日し、長崎県彼杵郡外海地方(現・長崎県長崎市外海地区)において、キリスト教(カトリック)の布教活動の傍ら、貧困に苦しむ人達のため、社会福祉活動に尽力した。 == 生涯 == 1840年(天保11年)3月27日、フランスノルマンディー地方バイユー近郊のヴォシュロール(ヴォスュロール)村(Vaux-sur-Aure(フランス語版))で生まれる。 1860年(安政7年)、神学校を卒業後にパリ大学に進み、1865年(元治2年)、司祭に叙階された。 1868年6月(慶応4年)、司祭のベルナール・プティジャンが帰国中に印刷技術を持った宣教師を募集したのに応じて来日した。長崎で布教に従事したのち、1871年(明治4年)に横浜へ転属し、日本最初の石版印刷を始め『聖務日課』、『教会暦』などを刊行した。 1873年(明治6年)、浦上の信徒らが浦上四番崩れによる流刑から釈放されたのを機会に長崎に戻り、印刷物の発行を行った。翌1874年(明治7年)7月、長崎港外の伊王島で赤痢が発生し浦上地区まで広がり、流罪によって衰弱していた浦上信徒に蔓延したのを受け、ド・ロは毎日患者の家まで薬箱を下げて通い、予防方法等について説いて巡回した。 1878年(明治12年)、出津教会主任司祭として赴任し、カトリックに復帰した信者やカクレキリシタンが多く住んでいた外海地区(黒崎教会、出津教会)の司牧の任にあたった。ド・ロは、この地域の人々の生活が貧しく孤児や捨子も多く、特に海難事故で一家の働き手である夫や息子を失った家族が悲惨な生活を送っていることを知り、1880年(明治12年)に孤児院を開設し、1883年(明治16年)には救助院(黒崎村女子救助院)を設立して授産活動を開始する。この施設に修道女として入った婦人たちは、ド・ロの技術指導に基づいて織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油の製造などを行った。ここで製造されたシーツやマカロニ、パンなどは外国人居留地向け、素麺や醤油などは内地向けに販売された。1886年(明治19年)には、住民を伝染病から救済するため「ド・ロ診療所」を開設し、社会福祉事業に挺身した。1914年(大正3年)11月6日、大浦天主堂司教館(旧長崎大司教館)建築現場において足場から転落、それが元で持病が悪化し、翌日の11月7日に死去した。遺骸は出津に運ばれ、小高い丘陵にある共同墓地に埋葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルク・マリー・ド・ロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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