|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
マルセロ・ジョゼ・ダシュ・ネヴェシュ・アルヴシュ・カエターノ(, 1906年8月17日 - 1980年10月26日)は、ポルトガルの政治家、首相。 ==生涯 == はじめリスボン大学の法学教授であり、超保守主義者であった。 1940年、アントニオ・サラザールの権威主義的独裁(エスタード・ノヴォ)の下、カエターノの出世が始まった。すぐに体制の要人となり、ヒトラーユーゲントを模倣した組織であるポルトガル青年団()の長官、後には植民地大臣にも指名された。 1968年、サラザールが突然の事故により執務不能となると、カエターノが後継者に指名され、9月28日に首相に就任した。サラザールと比較して、カエターノの政治姿勢はカトリック内の進歩的な思想にある程度寛容さを示した。ポルト司教とマリオ・ソアレスは追放を解除され、検閲も緩和された。カエターノ自身は社会民主主義を標榜したが、実際のところ、全体主義的な傾向は変わっていなかった。1968年10月にカエターノはアレンテージョで演説を行ったが、聴衆の老婆が発した「今回のサラザールは、前のより少しだけマシらしい」との言葉は、カエターノの統治の性質を表す言葉として当時のジャーナリストによく紹介された〔野々山(1992:32)〕。しかし、植民地政策についてはサラザールの路線を踏襲した。植民地戦争は継続され、ザンビアのカウンダ大統領らの仲介の申し出にも応じなかった。 カエターノの政策、特に植民地に対する政策は厭戦感情が高まりつつあった民衆と軍部に失望を与えた。それまでも政府への批判活動は社会党、共産党が先頭に立って行っていたが、それら政党は政府を打倒する武力はなく、代わって軍部に期待が寄せられるようになった〔野々山(1992:34)〕。またこの時期、ポルトガル軍の将官に体制打倒に同調する素地も作られていた。ポルトガル軍の士官はかつて上流階級によって占められていたが、第二次大戦後の社会の変化により上流階級からの志願者が減少した。植民地戦争が起こった1960年代には志願者の減少から、士官学校はあらゆる階層の国民を受け入れるようにもなっていた。こうして、士官にプロレタリア階級出身者が多く生まれるようになった〔野々山(1992:35)〕。さらに1973年6月、カエターノが徴兵を受けた従軍中の大学卒兵を優遇する政策(帰国して1年間教育課程を受ければ、将校に昇格させる)を発したことで、彼らは決定的に反政府へと転じるようになった。下層出身者が士官学校を4年間かけて卒業して手に入れた将校の地位(彼らの唯一の出世の手段であった)に、大学に通える資産があるだけのアマチュアが1年で就いて同格になることへの強い反発があった〔野々山(1992:36)〕。 1974年には左派青年将校らによる国軍運動 (MFA) が決起し、アンゴラ、モザンビーク、リスボンの各地からカエターノへの抗議文が提出された。軍部からの反発に虚を衝かれたカエターノは、責任者の処罰といった対応をとる時間もなく〔野々山(1992:37)〕、カーネーション革命が勃発。包囲されたカエターノらは投降し、翌日にはトマス大統領と共にマデイラ島へ移され、数日間滞在した後、ブラジルへ亡命。1980年、同地で没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルセロ・カエターノ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|